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 巨大な隕石が降ってくる。
 そんなニュースが流れたのは四十二日前、大分と長くなった夏が暮れ落ち、短い秋に爪先が触れたくらいの頃だった。
 確率は五分五分。このまま軌道が逸れることなく衝突すれば、最悪人類滅亡の未来も考えられるだろう。深刻な面持ちでモニターを参照しながら分析を交わす司会者と専門家たちの姿が連日報道され、世の中の人間はざわめき立った。
 それと同時に、数年前に一部の人間たちの間で騒ぎになっていた小さなニュースにも再び火が点いた。どこか遠い国の老婆の、これまでにも幾度となく聞いたことのあるような予言。
 20xx年10月2日、人は脆く、世界は終わる。
 奇しくも、それは隕石が落下すると言われているのと同じ日付だった。

 条件は重なり合い、弱い僕たちの恐怖心を煽る。地球最後の日がとうとう明日に迫り、やがて人々は不幸を呪う言葉や恐れを口にしなくなった。「軌道が逸れる」という50%程度の可能性が、徐々に潰えていったせいでもある。それは諦めであり、受容であり、あるいはこの稀有な運命の共同体としての心強ささえつくり出していた。
 もちろん、僕のように極端に実感の薄い人間だっているだろう。いつもと同じように朝日が昇り、まだ微睡む頭を必死に覚まして、食事を摂り、気だるそうに支度をする。違うことと言えば、この非常事態、大抵の会社や学校が休みになったことで時間を持て余していることくらいだ。こんな生温い日常が、果たしてそんなにも急激に終わるものだろうか。

「御坂くんは、臆病だからね」
「何ですか、いきなり」
「だからそんなふうに、平気なふりをしているのよ。そうじゃなくちゃいてもたってもいられないからだわ」
 キッチンで食器のぶつかり合う音が響く。最後の夕飯を囲んだ後に、都さんがなにもかもをわかりきったような唇で呟いた。
「そんなこと言われたって、本当にぴんとこないんですよ。だって明日にはいきなり僕も都さんもいなくなってるだなんて、信じられる? そんなこと」
 僕は両手の指を組んでは外し、また組み替えては外し、リズムを変えて、角度を変えて、その生産性のない行為を繰り返す。なんとなく落ち着かない気分になった。
「信じられない。だから泣きそうになるの」
 彼女は一房に纏められた長い黒髪を揺らして振り返った。白い手を泡が包む。あれは毎晩彼女の肌を荒らした。こういうときの思い詰めたような真摯な双眸に、僕は平静でいられた試しがない。いつも心臓が苦しい。
「そうですね。僕は臆病です。あなたのことになると、断然」
 困ったように笑うことしかできなかった。終焉を目前にしても、そのまなざしに見放されることが一番の恐怖だ。どうせ二人とも同時に消えるにしたって、もう都さんに会えなくなるのは嫌だな。それだけ思った。

 変なもんだよなあ。
 同僚が言う。昨日見納めにと散歩をした時、同じように家族で出かけていた彼と会ったことを思い出した。遠野は僕より二つ年が上だが、入社したのは同じ年で、それから六年間ほとんど毎日のように顔を突き合わせてきた。控えめな印象の遠野の妻がまだまだやんちゃ盛りの幼い子供を公園で遊ばせている光景を眺めながら、少し離れた場所で彼と話をする。
 彼は大切な友達だが、さすがに男二人でしみじみと思い出話をすることはない。ぽつ、ぽつ、と、短い現状報告と感情を淡白に交換するだけだ。会社が止まってから一ヶ月。こんなに会わないのはそういえば初めてのことだった。
「人生これからだっていうのに、神様もひでーよな。でもみんな一緒ならしょうがないかって、そう思うのは不思議だ」
 遠野は多くの時を快活な笑みで過ごす。この時でさえ、必要以上に悲観している様子はなかった。しかし僕よりもずっと多くのものを持つ男だ。言うまでもなく失意のどん底であろう。ただ、抗いようもないだけで。
「お前はいつだ?」
「明日の夜」
「そうか。俺らはこれから」
 ペットボトルを傾けて、透明な液体を咽頭へと流す。地球が終わる間近でも腹は減るしノドも渇くもんだな。そう言って遠野はまた肩を揺らした。
「都さんは元気?」
「相変わらずだよ。今まで通り、取り乱すこともなく淡々としてる。あれが都さんの元気な状態なんだろうな」
「ははは。クールな人だもんな。婚約者の前でも変わらないのか?」
「変わらないね。僕も、彼女も」
「そうか。そうだな。お前は変わらず、都さんばっかりだしな」

 婚約者。それが僕と都さんの間柄。
 都さんは僕の教育係だった。経験年数は三年程度の差であったにも関わらず、彼女は優秀で、上司からは信頼を受け部下からは慕われていた。女性特有の機嫌の波もなく、朝から夜まで穏やかで、僕がミスをすると少し厳しい口調で叱った後きまって肩を二度叩き、「ごはんでもいこうか」と言う。
 都さんの手首からはクロエの香りがする。(クロエというものを僕は知らなかったが、一度尋ねた時に教えてくれた。)それは書類を捲った時や、僕のキーボードを代わりに打つ時や、身を乗り出した時に鼻腔をくすぐる。意外と少女らしい匂いが好きなんですねと言うと、少し恥ずかしそうに首を傾げた。そうかな。結構、大人っぽい香りだと思ってたんだけど。

 都さんが部署を異動することになった時、僕は交際を申し込んだ。それからほとんど同時に同棲を始め、婚約し、半年後に彼女は仕事を辞めた。僕が勤める会社のもうどこからも、クロエの香りはしなくなった。
 自宅では、クロエの代わりに夕飯や洗濯物の匂いがするようになった。毎日のことなのに食卓を囲む瞬間は毎日緊張すると微笑む都さんが好きだった。
 変わらないと言ったのは、半分嘘だ。なんとなくもったいなくて、僕の中だけに閉じ込めておきたかった。
 僕に家族はいなかった。正確には、いなくなった。幼い頃に他に男を作って出て行った母は今どこで暮らしているかも知らないし、男手一つで僕を育て上げてくれた父は僕が二十歳の時に大病をして間もなく息を引き取り、きょうだいはいない。僕に「おかえり」をくれるのはもう都さんだけで、都さんが僕の世界のほとんどだった。

「俺、お前のことが結構好きでなあ。友達としてだぞ。変な意味じゃないからな。いや、いつか生まれるんだろうお前と都さんとこのガキと俺んとこのガキとで、いっぺん遊ばしてみたかったなあ」
 遠野はそう呟いてから、じゃあな、と笑顔で手を振り歩き出した。一段と低い背を真ん中に手を繋ぐ三つの影が、夕日に照らされてどこまでも長く伸びていた。

 気が付くと、都さんは食器を洗い終え、僕の肩に頭を預けるようにして座っていた。何も言わずにその華奢な手を握る。ハンドクリームを塗ったばかりなのだろう、貼りつくように湿っていた。
「あなたに会えなくなることが怖い」
 熟れ落ちた夜を一緒に眺めながら、沈黙を破ったのは都さんだった。
「それは僕も一緒です」
「名前を、呼んでくれる?」
「……都さん」
「そうじゃなくて」
「ハルカさん」
 ふふ。小さく、硝子のような声を立てて都さんが笑う。
「御坂ハルカって、似合わないわね。なんだかごつくなる」
「でも、悪くない」
 そうね。都さんが静かに相槌を打つ。
「できるだけ長く傍にいたいわ。だけど、もう一秒一秒怯えて過ごすのは耐えられない。怖くて、怖くて、壊れそうなの。臆病者は私の方なの、御坂くん」
「……名前を」
「……有希くん」
 有希。もう一度繰り返して、都さんが僕の頬をそっと触る。壊れ物を扱うように。それは懇願のくちづけだった。世界が終わるということを、僕はこの瞬間にはじめて痛感することになり、ようやく体が震え、涙が出た。
「おねがい」
 どれほど葛藤しただろう。案外短かったかもしれない。どうせ明日には終わってしまうのだからと思うと、これが最善であることはわかりきっている気がした。明白な答えに導かれた手が、彼女の細い喉元へと伸びる。外からでは見ることのできない喉仏を慈しむように触る。
「すぐ行きます」
 力をこめた。本能的に抵抗する彼女の力は、それでも弱かった。徐々に肢体が枝垂れ、青ざめていく。

 世界が終わることを知った人々は、大きく二手に分かれた。終わりをただ待つ者と、自ら終わらせる者。大切な誰かを持つ人は、大抵後者を選んでいたと思う。未知数の恐怖に怯えるよりは、同時に息を止めたい。僕も都さんも、きっと遠野たち家族も、そう願った。
 都さんは、先に僕に首を絞めてほしいと言った。
「できるだけ長くあなたの体温を感じていたいの。あなたに看取ってほしいの」
 嗚咽が鼓膜にこびり付いて離れず、僕は承諾した。
 終焉の前日に、僕は最愛の人を殺した。この手で。

 その後は、ナイフで頸動脈を切るつもりだった。竦んで動けなかった時用に首を吊るためのロープと、それも駄目だった時用に大量の睡眠薬と練炭も用意した。それでも都さんを手にかけた後僕は茫然としてしまい、どうしても動くことができなかった。
 思考がはたらかない。都さんが死んだ。死んだ。死んだ。いなくなった。殺した。それはタイムリミットがあるとはいえ、一分一秒でも耐え難い事実だった。どうして。どうしてこんなところに置き去りにしていくんだ。
 しかし体温を損なった彼女は、不思議と今までで一番美しい。僕は後追いをやめた。世界が終わるそのときまで、その寝顔をできるだけたくさん角膜に焼き付けておくのも良いものだと思った。
「しまったな。市役所はいつまでやってたんだろう。どうせなら最後に籍を入れておけばよかった」
 瞼の淵から一筋涙がこぼれたが、もうそれを拭う指は存在しなかった。横たわった彼女の体のそこかしこを撫でながら、僕はぼんやりとそんなことを呟き、朝方には微睡みの奥深くへと沈んでいった。
 世界は終わるはずだった。




 結論から言うと、隕石は落ちなかった。
 テレビの向こうで専門家が「これは奇跡だ」と言った。数の減った報道陣は安堵の表情を浮かべている。一方で、将来を悲観し多くの人間が自ら命を絶ったことも報道され、お悔やみ申し上げますとキャスターが神妙な面持ちで頭を下げた。彼らは自らの役割を果たすため、結末を見届けようと最後のその瞬間まで目を見開いていたのだろうか。――最後は、来なかったわけだが。

 そうは言えども、世間は閑散としたものだ。静まり返ったアパートメントの一室で、一軒家の奥で、このどんでん返しを知る由もなかったかつての住人が転がっている。生き残った何割かの人々が、この奇跡に喜びの声を上げたかもしれない。
 僕に残されたのは絶望だった。
 どうして僕だけが生き残ってしまったんだ。

「都さん」
 隣で眠っていた彼女の体を揺さぶろうとするが、既に硬直しており無理に動かせば歪な音を立てそうだった。氷よりも冷たい温度。それなのにかすかに、腐り始めた匂いさえする。クロエ? 夕飯? 洗濯物? ――彼女は一体どこに?
「都さん、起きてください。目を覚まして。昨日の続きを」
 嗚咽も漏れない。泣き方がよくわからないからだ。身体中の水分が枯れ果てた気がした。代わりに怒りが沸き起こった。一体どこにそんなエネルギーが潜んでいたのだと思うほど、ふつふつと熱を持つ。
 ほとんど雄叫びのような声で叫んだ。咽頭が枯れても、枯れ果てても、当然のように彼女は還らなかった。
 世界は終わらず、再生することもないまま、僕は無様に。
 無様に。

「おいていかないでくれ」

 ――20xx年10月2日、人は脆く、世界は終わる。
 預言者は嘘を吐いてはいなかったのだと、思った。

2015初夏 ワールズエンド症候群