ばかばかしいと首を振った。そもそも、全てに於いて違うのに。

 この家に来た日のことを、もうよく覚えていない。あの時わたしは生き永らえることに必死で、其れ以外はどうでもよかった。残っているのは鱗に貼り付いているような薄い薄い紙の感触だけ。こんなひ弱な紙切れ一つに左右される自分があまりにも情けなく、とても衛生的とは云えない水の中を藻掻く様にして泳いだ。わたしを大切にしてくれる手が欲しい、と、判断が付くわけでもない癖に懸命に眼を光らせて。
 結局わたしを掬い上げたのはしがない駄菓子屋の親子であり、当時未だ制服のスカアトすらぎこちなかった娘は、今では町で噂をされる程美しくなった。夏祭りに出掛ける際、もうあの晩みたく薄汚れたワンピヰスを着はしない。一張羅としている着物を大事に大事に身に纏う。

 貴方はひと月ほど前に、突然やってきた。
 わたしのいる部屋には大きな窓があって、其の向こうに塀が見える。人間にすればどれくらいかは検討も付かないが、わたしにしてみたら一層恐怖するくらいに高い其れだ。けれど普段窓は閉め切っているし――夏場は特に虫の出入りが多いので――其の上を歩く猫の存在に本能が騒ぎ怯えることこそあれど、対峙する経験等は限りなくゼロに近かったわけである。
 此処は日頃寝室として用いられているため、表で御主人が大きな声を発した時以外、日中はしんと静まり返っている。わたしはと云えば緑の鮮やかな植物を眺めたり、畳が心地良さそうだと羨んでみたりしながらゆらゆらと泳ぐばかりだ。そんな折、突然鉢の中が暗くなった。何事かとぱちぱち瞬きを繰り返す。視線を感じるが一体何處から――慌てて影の差している方をよくよく観察してみれば、金に光る様な眼差しが此方に向けられているではないか。わたしが逃げ惑おうと尾ひれを揺らすよりも早くに、然し貴方は低い声で唸った。
「どうしてこんな処に閉じ込められているのですか」
 其の言葉が存外優しく響いたもので、わたしは再度驚き、忙しなく瞼を動かす動作を繰り返してしまう。
「閉じ込められているわけではありません。此処がわたしの御家なのです」
 泡が誘われる様にして上へ溶けて行くようすを見ながら、自分が生まれて初めて話したことに気付いた。この家でわたしは厭くまでも金魚だから、誰かに何かを伝える必要は無かったのだ。ずっと。
「其れは其れは、悲しいばかりですね」
「そんなことないわ」
 だって、生きていられるのだから――咄嗟に否定の言葉を口にした後そう続けようとしたけれど、如何してか口を噤む。可笑しい。あの頃はあんなにも平和で穏やかな日常を望んでいたと云うのに。一拍呼吸を置き、わたしは猫を見つめた。
「でも、少し」
 目を伏せ、思案する。云ってしまって良いものか。ただ、此処まで来て堰き止めることは不可能に近く思えた。
「何の危険も無く、明日の心配事も要らない日常は、如何してか知ら。ほんの少しだけ、退屈です」
 そうとまで話しておいて後から丸でいけないことを口走ったような気がしてたまらなくなり、躰を強張らせた。其れを見て貴方は何を思ったか、突然金魚鉢に前足を入れたのだ。ぱしゃり、水の跳ねる音がする。わたしは心臓を凍て付かせることも忘れ、見惚れていた。透き通ったほんのり桃の色をしている爪と、逞しい足裏に。
「――失礼。そうか、触れられはしないのですね」
 紳士的な猫だと感じた。其れは、話し方から。はたまた身のこなしから、整った顔付きから、或いは雰囲気から。きっと聡明で、繊細で、独りの好きな方だと。
「また来ても良いですか」
「ぜひ。窓の開いていない日は、爪で其処を掻いて。お顔だけでも拝見したいから」
 其れを聞けば猫はくつりと笑い、
「余程暇なのですね」
 と云った。わたしはただでさえ朱い躰を益々朱くし、黙りこくることしか出来ない。
「其れではまた」
 顔を上げた頃、貴方はもう後ろを向いていた。流石猫、俊敏である。遠目から見て漸く、其の方が茶と白の縞模様であることを知る。品のある鼻先をしていた。躰のしなり具合は思った通りに美しく、去り際に振り返って会釈をした処もドラマチックだ。尖った刃物の様で、憂う満月の様で、雨みたいに優しい金色の瞳。うっとりする。

 困ったことにわたしはあの猫を忘れられなくなってしまった。けれどどんなに焦がれようとも、無理矢理口付けをすることすら叶わない。陸で生きる貴方に、水中を泳ぐわたしがそんなことをしでかすには、越えてはならない、否、越えるべきじゃない問題が多過ぎるからだ。感情を抑え込むかの様に、深く深くに沈んで息を潜める。でも彼は、あれきり来ていない。所詮その程度の事柄だったのだろう。わたしには此処しか無いけれど、貴方には広い広い世界がある。ばかばかしい――もう止めよう。好い加減にしなくては。

 或る日の午後、窓硝子が泣く様にしてかりりと音を立てた。
 すると重く遣る瀬無い想いは打って変わって軽くなり、こヽろは一瞬にして貴方に奪われる。
 嗚呼、わたしが死ぬ時は其の金色に溺れよう。如何やれば溺れられるかはさて置いて、取り敢えず貴方の瞳の中で死のう。後どれくらい生きられるのか、そんなくだらないことに最早興味は無いけれど、其れを終わりに出来るなら其れ以外の幸福は恐らく容易に劣るし、色褪せる。
 愚かな思い込みだとしても、わたしは貴方に恋をしている。紛れも無く、途方の無い恋を。


2011.10.31 初夏の爪
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