知ってますか、魚って、人間が触れたら火傷しちゃうらしいですよ。と、脈絡のない事を高町理子が呟いたのは、秋の暮れ始めた頃だった。約束をしていたわけでもないのに、放課後偶然出逢った僕と高町は、いつも通り生物学室の壁に凭れ掛っている。厳密に言えば壁にぴったりと設置された背の低いロッカーに、だ。思いもよらぬ方向へ流されているのか、自分の意思で泳いでいるのかも定かでない魚たちの棲家を間に挟んで。 「そうなの?」 「いや、詳しくは知らないんですけど、そういえばそんなことを前小説か何かで読んだなあって、思い出したんです」 記憶を手繰り寄せるように、ところどころ言葉にもならない呻き声を足しながら、高町は徐に水槽に手をくっつける。ぺたりと貼り付いた掌は、こちらからはよく見えない。 「ふうん」 そうなんです。続けて頷く表情は丁度影になっていて、僕には読み取れなかった。僕は周囲の人間と比べると割と動物好きな方だと自負しているけれど、意識の中で魚を動物としてカウントしていないのか、この生き物たちに特別な感情を持った事は無い。言ってしまえば僕も列記とした動物であるわけなのだが、その辺りの追及をしないのが身勝手と言うべきか、器用と言うべきか。ならば、可愛がるべき動物として、と括ってみるのは良いかもしれない。少々冷酷には聞こえても、最早そこは趣味や嗜好の領域であるし、それなりに理に適ってはいるだろう。と、誰に説明するのでもない癖に、筋の通った主張を僕は短時間で作り上げた。その間、高町は何か考え込んでいるようだった。 「先輩、もうちょっと太った方がいいですよ」 何を言い出すのかと思えば、少し腰を曲げ、僕の方を覗き込んで高町はそんな事を言った。彼女は思い付きで物事を話す事が多く、いつもしょっちゅう話題が変わる。僕はひとつひとつの話に然程真剣に耳を傾けていない事もあり、それに着いていくのは苦ではなかった。言わばBGMのようなものである。一定のリズムで相槌を打ち、思い付いたように笑う。そして高町はそのやり取りをどう感じる風でもなく、寧ろそのBGMを好んで流してくれているような節があった。 高町は僕にとって、リラクゼーション効果のあるCDを読み取るレコードやラジカセだった。 「そうかな。そう思う?」 腕を上げ、遠目に観察してみる。しかし自分ではそれがどの程度のものなのか検討も付かない。多分、そういうところに注目して生活していないからだ。 「そうですよ!」 怒気を孕んだような声を出し、高町が近付いて来た。僕の前に立ち、ほら、と腕を並べてみせる。残念ながら、確かにどちらが護られるべき少女であるのか一瞬判断の付かなくなってしまうような細さではあった。その後彼女はおずおずとそれを引っ込め、眦を下げる。今の行動を悔やんでいるかの如く溜息を吐いて。 「わたし、はじめて逢った時から思ってましたもん、先輩は不健康すぎるって。それも、誰かに感染る類の不健康さ」 不貞腐れたような顔付きで、彼女が唇を動かす。僕は呆気に取られ、一度瞬きをした後、「感染病を持ってるってこと?」と聞き返した。 「違います。そんなの、わたしがわかるわけないじゃないですか」 呆れた風に首を振る。それから人差し指の腹で唇をなぞった。彼女は考える時、唇を触る癖がある。時々皮をべりりと剥いてしまうので、見ていて痛々しい。 「先輩を見てると、きゅうってなるんですよ。見ちゃいけないものを見た感じ。生気が無さすぎるの。で、うっかりそれに自分の正常さが淘汰されそうになるんだけど、それも可笑しいって思えない。危ないんです。だって、わたし、先輩に一緒に死んでくれないかって言われたら、多分断れませんよ」 そこまで言っておきながら、ふと申し訳なさそうに、「……なんか、すみません」と付け加えられた。僕は困ったように片眉を下げて笑う事しか出来ず、どういった意図なのだろうと頭の隅で考える。深読みすれば告白のように思えなくもないけれども、どうやらその線は薄そうだ。当の彼女はあっけらかんとしているから。 ――はじめて逢った時。高町のその言葉に掴まって、しゅるしゅると時間を辿る。そんなに遠い昔の事では無い。数ヶ月前の、今年の夏だ。まだ日差しは強く、僕は屡サボタージュを決行した上、この教室に入り浸っていた。太陽は嫌いだ。真夏のグラウンド授業など以ての外である。あれは僕を殺しに掛かっているに違いない。みんなが「暑い」と言う光は、僕にとって凶器だった。肌に触れる度痛くて、眩しくて、くらくらした。影を探しても、必ずにじり寄って来る。僕を、照らしにくる。それはもしかしたら太陽の親切心だったのかもしれないが、大きなお世話なのだ。よく耳にする北風と太陽の賭け事が身近で行われているとするならば、僕はどうすれば巻き込まれないかを真剣に考える事だろう。わけもわからず、情もなにもない相手の私情に左右されるなどまっぴらごめんである。 高校の二学年目に進級する事が出来たのは運が良かったと言う以外形容の仕様がなかった。出席日数を数えてなんていなかったし、そもそも何日以上の欠席で進級危ぶまれるのかさえ理解していなかったのだから、それは都合の良い偶然としか呼べなかったのだ。生物学室は僕が知る中で一番日当たりの悪い教室だった。それに加え人の出入りが少なく、カーテンを閉め切れば安全な睡眠が摂れる。高町がやって来たのも、丁度一眠りしようと昼食後に瞼を下ろした所だった。 「隠れ家ですよ。僕の」 物音に気付いて扉の方に目を遣ると、小柄な少女が一人、こちらを見つめている。年下とも年上とも判断し兼ねる風貌で、フランクな敬語を選び、話した。少女は物怖じする風でも、緊張する風でも、喜ぶ風でもない。艶のある黒髪が胸の上まで伸びている。くるくると螺旋を描いた毛先は愛嬌のある猫のようで、しかし人懐こい種類ではないのだろうな、と直感した。ぱっちりとした一重の瞳が濃い印象を与えるけれど、よく観察してみるとまつげの数が多いのではなく、その一本一本が長く、しっかりしているのだと言う事がわかった。おまけ程度に添えられた小さな口が、動く。 「そうですか」 女性らしい丸みを帯びた声は、高く響いた。しんとした空気の中に馴染む事はせずに、ふわふわと辺りを飛び回っている。僕がいる事で決めていた行動を変更するつもりもなかったようで、すたすたと水槽を挟んだ僕の反対側へ行った。これが二人の定位置になった。 「よく来るんですか?」 後からやって来たのは紛れもなく彼女の方であるのに、まるで僕が割って入ってきたような言い方だったので、思わず口許が綻ぶ。 「そうですね。息抜きに」 「そうなんですか」 彼女は僕に興味などなさそうだった。だからと言って空気として扱うわけでも無くて、ただそこに居ると言うだけ。僕の存在は彼女にプラスに働く事もマイナスに働く事もない。いるならそれで、いないならそれで。もし彼女との出逢いがこの閉鎖的な空間で訪れたものではなく、学校の中心で流れる日常に溶け込んでいたのなら、こうはいかなかったのだろうと感じた。きっと彼女は今以上に女子高生らしい反応をするし、少し強張ってみせたり、照れくさそうに笑ったりしただろう。僕も話が完結しないよう努力した筈だ。尤もそんな出逢い方なら会話を交わす必要性自体なかったかもしれないが、その必要性と言うものは、現時点でも無いわけである。 「二年生の方ですか? 三年生?」 彼女が質問を発したので指を二本立てたけれど、水槽に隔てられていて見えないのだと気付き、慌てて「二年」と声を張った。 「それなら、先輩です。というか、どっちでも先輩なんだけど」 その答え方で、彼女が一年生なのだとわかった。確かに初々しい空気を纏っていたような気もする。夏物の白いセーラー服は、まだ彼女と一体化してはいなかった。別々の物体が、それぞれそこに同居していると言う感じで、些か窮屈そうでもある。 「名前を聞いても?」 「タカマチです。タカマチ、リコ。高い町に、理想の理、子供の子」 リコ、と言う音が、人間らしくないようで違和感があった。有り触れた名前なのだけれど、彼女に限ってこれなのか、と。よく出来た人形の名前のようだ。リコ。理想の理子。 「理知的の理、だね」 「理不尽の理、です」 「理解の理。理路整然の理、だ」 「なんだかどんな字だったのかわからなくなっちゃいました」 高町がそう言ってくすくすと笑う声が聞こえた。そして、あ、と思い付いたように漏らす。 「理科室の理、です。そっちに行くべきでしたか?」 わざわざ確認しなくても、悪戯めいた笑みを浮かべている事が容易に理解出来た。 カーテンを掻き分け窓の向こうに視線を送ると、焼けるような夕日が沈み始めていた。綺麗だと思ったけれど、わざわざ口に出して言うとどこか気障になってしまう気がして迷っていたところに、「綺麗ですね」と高町が言ったので、そうだね、と相槌を打つ。 「先輩、そろそろ暗くなって危ないですから、送って下さい」 パスタがないのでナポリタンが出来ません、とか、シャンプーはコンディショナーの代わりにはなりません、とか、そういう至極当然の事を言い放つのと同じトーンで高町が言葉を零した。 「僕の事は誰が送ってくれるの?」 鞄を開けて中身をチェックしているらしい高町にそんな台詞を投げ掛けると「先輩、情けないですよ」と笑い混じりの声がした。そしてひょいとロッカーの上に座り、ぶらぶらと足を揺らす。 「先輩ってちょっと魚みたいですね」 「なんで?」 「触ったら、焼けそう」 掌を広げ、まじまじと観察してみた。そこまで「不健康そう」な肌――基体をしているのだろうか。そういえば彼女に触れられた事はなかったっけ。 「触ってみる?」 思い出して不意に訊いたが、いいです、と躊躇いもせず断られてしまった。 「平熱低いんだって、確か前に言ってたでしょう。魚は変温動物だから、ええと、なんだっけ。なんとかかんとかで体温が低いので、人間の36℃とか37℃とかが、もう高熱なんですよ。そんな感じです、宮倉先輩」 言わんとしている事はわかるような、わからないような。ぐるりと目だけを動かして天井を見る。 「僕だって35℃台だよ」 「低いですよ」 高町がもう一度笑う。何がそんなに可笑しいのか今一ぴんと来ず、不可解そうに首を捻りながら、暫し考え込んた結果、 「まあ、万が一火傷しても、薬を塗ればいいんじゃないかな」 との一言を返す事にした。 「その程度で済めばいいですけどね」 一旦彼女はなるほどと頷いたけれど、それも束の間の事で、すぐにそう口角を上げてみせる。中々手強い人物だと思った。しかしいくら僕が不健康そうだと言っても、その僕にしてみれば見るからに力が無くか弱そうであるのは高町の方なのだ、と言う事は、今は述べる時期じゃないように思えて、言えなかった。高町が歩く度、こつこつとローファーが鳴る。その内彼女も踵ではなく高いヒールでもっと鋭利な音を生み出すのだろうと思うと妙に切なくなった。彼女に続き僕も同じく生物学室を出て、後ろ手に扉を閉める。鍵はいつも掛けない。滅多に使用されない此処に攫われて困るものは恐らく殆ど無いし、鍵の在り処も知りはしないから。大切にしまったものは、あっという間に腐ってしまう。だからまだもう少し、僕もこうして空気の中に埋もれていたい。 2010 凍える掌 |