まるで先輩が死んでいるようだったので、わたしはびっくりした。熱帯魚がすいすい泳ぎ回る大きめの水槽に凭れ掛り、ぐったりしていたからだ。だらんと流れるように落ちる腕は氷よりも冷たい気がして、滑らかで白い肌に、触れてはいけないと思った。けれども、わたしがそうっと近寄ると、彼は敏感に瞼を動かす。ゆっくりと長い睫毛が持ち上がった時に覗く黒の瞳は、その柔らかな風貌に似つかわしくなく悪魔のようで、いつもきまって身構える。昔話によく出てくる、目が合った人間の魂を吸い取ってしまうようなやつだ。 「どうしたんですか」 尋ねると、彼は少し、でもはっきりと、口角を持ち上げた。 「今日は天気がいいだろ。くらくらしちゃってさ」 聞けば昼休み、昼食を買いにコンビニへ出向こうとしたところ、あまりの眩しさに立ち眩んだのだと言う。「僕は太陽が嫌いなんだ」と、そういえばしょっちゅう言っていた。もう春の気配がすぐ傍まで来ているこの時期、わたしは寧ろ寒すぎるくらいだと思うのだけれど、その温度に慣れている分、偶の暖かさが彼には堪らないのだろう。 「保健室にいきますか」 「いい。だって、高町を待ってたんだ」 薄暗い部屋で彼はあっさりこのようなことを言うので、屡どきりとさせられることがある。それは甘く心臓が跳ね上がるというよりは、あ、やばい、殺されるぞ、と、本能が警鐘を鳴らしているのに近いものがあった。細くさらさらとした髪の毛の栗色を、彼は生まれつきだと話す。羨ましいほど真っ直ぐに、捻くれることなく育った品の良さそうなそれらは、男性にしては長めに伸ばされていて、わたしはそれを、なるほど、ここまで質の良い髪なら伸ばしたくなるのが人間だろう、と、時々思い付いたように納得するのだった。血色の悪い薄い唇は健康的ではなく、しかしその不健康さが彼のミステリアスな空気を醸し出し、より良い雰囲気作りに一役買ってもいた。すっと綺麗に筋の通った鼻と聡明そうな眉の形は誰が見たって凛々しくて、親しみ易いとは多分言えない。が、それらの印象全てを覆すようであったのが、ひょろひょろと小枝のように細っこい四肢だ。わたしも同年代たちの子と比べて、少なくともふくよかであるとは言い難いはずなのだけれども、彼のそれはもしかしたら、否、もしかしなくても、わたしのものより一回りも二回りも細いのである。体全体が枯れかけの頼りない木のようで、現に今みたいに、死んでるんじゃないか、と人を不安にさせてしまう何かが彼にはあったのだ。 日当たりの悪い生物学室。そこに、宮倉悟はいつもいた。わたしが初めて彼と逢ったのは去年の夏のことで、今高校二年生であるわたしが高校一年生、高校三年生である宮倉先輩が高校二年生だったことになる。愉快で騒がしい学校生活は、時にひどく窮屈で、わたしはある程度一人になって瞼を閉じる時間を作らなければやってられなくなった。別段不満があるというわけではなく、ただただ閉鎖的だった。そして、それは至極普通のことでもあるのだった。そのためになぜ湿っぽい生物学室を選んだのかは今もわからないままだが、なんとなく、生き物も悪くないな、と思ったのを覚えている。その割に、この教室ではどの学校にもいそうな美しも汚くも無い魚たちが、ゆらゆらと遊泳しているだけだったのだけれど。 「隠れ家ですよ。僕の」 先輩は言った。悪戯めいた笑みは心からの拒絶にも見えなかったので、わたしは「そうですか」とだけ返した。実際生物学室は静かなもので、先輩――と、わたし――以外、朝と昼と下校前に数分、生物委員の生徒がふらりと立ち寄り、ふらりと帰っていくだけだった。然程魚に愛着がなかったのか、先輩とわたしが入り浸っていて居辛かったのかはわからない。 何度かそこでばったりと逢って、ぽつぽつ言葉を交わしている内に、先輩のことが少しわかってきた。わたしと同じように息苦しくなるとここに来るということ。太陽が苦手なので一番光の射さない場所を選んだこと。宮倉悟という名前で、動物と触れ合うのが好きなこと。音楽をよく聴くけれど、ヘッドフォンは苦手なこと。イヤフォンも苦手なこと。最近、テレビに返事をしてしまうこと。泣くのも怒るのも、おなかを抱えて笑うのも得意じゃないこと。人は好きなこと。でも、どうやって接したらいいのかがわからないこと。あまり、恋愛に縁はないこと。 控えめな唇から透き通ったアルトが漏れ出す光景は妙に出来過ぎていて、わたしはしょっちゅう足が竦んだ。それでもある種の好奇心から、或いは探究心から、わたしは彼の傍にいるのをやめなかった。昼休みだけの短く密かな交流を、幾度も幾度も重ねる。恐らく彼はそれ以外にも訪れているのだろうけれど、真面目というより堅苦しいわたしに、ぎりぎりのところで殻を破る勇気はなかった。 わたしが彼に触れたことはなかった。傷付けてしまっては大変だと思った。 でも宮倉先輩は、その薄く脆く臆病な膜をいとも容易く壊してしまう。べりべりべろんと剥がされたそれは、やがてぽろぽろぼろぼろと鱗のように、細かく砕けて地に落ちるのだった。 「僕は高町が好きだよ」 なんて、彼が言う。わたしはやっぱり、ときつく双眸を閉ざす。やばい、やっぱり、殺されるかも。けれどもそうして焦燥を抱くわたしを余所に、もうひとりのわたしは意外と冷静で、気付けばきちんと彼の瞳を見つめ言葉を紡いでいた。 「わたしの手は、きっと先輩にとってやさしくありません。火傷を負わせてしまう。多分、丁度良い体温にはなれないの。怖いんです」 そう言って、わたしは彼の胸に触れる。その心臓の音は最果てから響くように遠く思えた。掌に脈打つ感覚が触れるけど、皮膚と細胞と神経と骨に阻まれてしまってはどうしても届かない。わたしは彼が知って欲しいと願う箇所に辿り着くことは出来ないのだ。恐らく。 「君が僕に何をしたいと思ってくれているのかがわからないけど、それでもいいよ。そんなことは障害じゃない」 宮倉先輩はわたしの右手に自分の左手を重ねた。初めて触れた彼の胸や手はひどく冷たく、心に不安が忍び込んでくるだけだった。 この爪の鋭さで、指先の体温の高さで、或いは低さで、彼に痛い思いをさせる日が来る。そう思えて仕方なかった。人と関わり合うということは相手が誰でも得てしてそんなものなのだろうが、わたしは彼に限ってだけ、それをしたくないと強く感じる。仮にその後、わたしの唇で傷口を癒すことが出来たとしても。 水槽の中で尾ひれをひらひらとさせる熱帯魚たちが、なぜだか救いを求めてもがいているように見えた。その姿と彼の瞳の翳りを重ねてみて、わたしは一瞬その手を握ってから、とん、と身体を突く。そして一歩後ずさる。それだけで簡単に生まれてしまう距離に、自分で戸惑う。 「わたしは厭。先輩を傷付ける勇気なんてないよ」 受け入れてみたい。一瞬でもそう思ってしまった自分を今更強く恥じ、取り消したくて首を振った。けれどそのことで、宮倉先輩が傷付いた顔をしているのは見て見ぬふりをする。わたしは狡い。だからきれいだと思わないで欲しい。失望された時の顔も、知りたくはない。受け入れてみたところで、限界はすぐにやって来るように感じられて堪らない。思い知るのには、彼が相手じゃなくて良い、と、思うのだ。 ――ごめんなさい。 水分の奪われていった喉がひりひりする。無理矢理出した声は想像以上に細くなった。彼が返事をするより先に、急ぎ足で教室を出る。宮倉先輩の置いてけぼりにされた子供のような目に映り込むわたしは、どれほどの醜態だったと言うのだろう。 勿論、わたしは彼のことが好きだった。なのに、逃げた。違う。だから逃げたのだ。昇降口まで続く廊下は随分長く感じられ、何度も何度も振り返り、後戻りしたくなる衝動を必死に抑える。忙しなく動くわたしの足が、かつりかつりと音を立てていた。ローファーが削れそうな程乱暴な早歩きだった。 ばかだな、先輩、もう逢えないじゃない。 わたしはこっそり、胸の奥でそんなことを思う。後一年知らんぷりをしてくれてたら、もっと傍にいられたのに、ばかだな。視界が定まらず、矢張り春にしては今日は暑いのだ、そしてわたしも冬の寒さにやられてしまったのだと思ったけれど、そうではなく、なんてことはない、わたしの下瞼に涙が溜まっているだけだった。ばかなのはどっちなんだろう。止まった足は、きっと暫く動かない。 脳裏で、熱帯魚の黒い瞳が過った。まだこちらに強い視線を送っているようだった。彼らの視線は生々しく、わたしのことを嘲笑う。おまえは魚でもないのに、愚かだね、と。おまえみたいな生き物とわたしたち魚を一緒にしてくれては困るのだよ、と。 わたしは心の中で、その言葉に、はい、はい、ご尤もです。と、必死になって答えていた。 2010 35℃の魚 |