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 くだらないことを。そう振り切られてしまうのが怖くて、訊けずにいた。あの樅ノ木はどうしたの?
 あの人は大輪の椿にそっと手を添え、棘を触る。あ、と思った頃には、指先からぷくりと膨れ上がるようにして血が溢れていた。わたしはそれが心配で堪らなかったけれど、背筋をぴんと伸ばしたまま作ってみせるのはなんでもない顔。気丈な女が好きだと、嘗てあの人が云ったからだ。
「嗚呼、脆いものだねえ」
 徐に唇を動かすその様が妙に美しくて、わたしは思わず息を呑む。当たり前です。絞り出した声が震えてしまった。
「おまえと出逢った日、空が綺麗だと云ったら、あれはセルリアンブルーと呼ぶのだと教えてくれた」
 しかし天を仰いでも、其処にあの日の色は広がっていない。代わりに燃えるような暁が、丸で雲すら焼き尽くしてしまいそうな程情熱的な姿を見せている。でも、構わないでしょう。わたしは云う。今更そんなものなくたって、あの綺麗な空は変わらないでしょう。するとあの人は目を伏せて、くつり、小さく喉を鳴らした。
「おまえが云いそうなことは、大体見当が付く」
 こういうときの大層儚げな表情があまりに胸を切なくさせるので、少し慌てて同意する。わたしもですよ――。あの人と一緒になって、どれくらいの月日が流れたのだっけ。もうあの人はわたしの半身であるのだから、こんな言葉の交わし合いは極々当然の事にすら思えた。プラスアルファ、ではないし、一足す一でもない。況してやわたしとあの人、でもない。ふたり揃って一なのだ。
「天使のような女だと思ったよ」
 なんてむず痒い事を仰るのか。頬を染め躊躇う隙も与えずに、あの人は目元の皺を深める。
「だからどきどきした。おまえが私の恋人になってくれた日から、どんどんおまえの内側や裏側が垣間見える。思う以上に無邪気で幼いし、一途だったね。私に好かれようとするおまえはかわいかった」
 懐かしむみたくやさしい顔付きをし、掠れた声でそんな事を紡ぐ。思い出話はやめてください。そう云って立ち去りたい処だが、むかしを想って双眸を細めるあの人は妙に寂しげで恐ろしい。このまま何處に行ってしまうのか。大人になって年老いても、孤独というそれは恐怖でしかなかった。なのでわたしはあの人と身を寄せ合ったし、その恐怖から逃れようと必死で藻掻いて此処まで来たのだ。
「そういえば出逢ったのは今日と同じクリスマスだったねえ。あの日以外、おまえと出逢ってからは毎年茶碗蒸しを食べていたような気がするよ」
 しみじみそんなことを呟くので、わたしは可笑しくなってつい笑ってしまう。本当は、ローストビーフやフライドチキン、ポテトサラダにビーフシチューなんて小洒落たことをしたいとずっと思っていたのに。でもあの人は胃が弱かったし、洋食をあまり好まない。仕方がないので、初めて二人で過ごす十二月二十五日に手の込んだ和食を食卓に並べてみたら、あの人は茶碗蒸しを随分気に入った、というわけである。それから欠かさずクリスマスには丁寧に茶碗蒸しをこしらえた。あの人好みの具を沢山沢山詰め込んで――玉葱と鶏肉。帆立、鱈、鰈、鮭。烏賊と蛸。穴子を入れたこともあるし、椎茸などのきのこ類も――それに三つ葉と飾り切りをした人参を彩りに添え、お出しする。勿論御出汁は一からきちんと取って。嗚呼、でも、
「なあ、私は作り方を知らないんだ。台所に立った事も無い。いつも任せ切りですまなかったが、私はおまえの料理が好きだった。頼むよ、今日もまたこさえてくれないか」
 は、と我に返ればしくしくと俯き加減にあの人は泣いている。驚き、伸ばした手はいとも容易くあの人の躰をすり抜けてしまった。そして思い出す。そうだ、わたしはもう行かなければならないのだ。此処に戻ってきてはいけないのだ――。
「難しいのなら今日じゃなくてもいい。クリスマスを過ぎてしまっても、ずっと待っているから」
 皺だらけの手で、摘むようにばらをきつく握った。わたしはと云えば何を云う事も出来ず、只ヽ茫然とその光景を眺めるばかり。軈てつう、と冷たい涕が頬を伝う。

 あなた。
 あなた、泣かないで。

 声に出しても、あの人はわたしに気付いてくれない。抜け殻のようになったあの人をぎゅうぎゅうと抱きしめてやりたいのに、生があるか否か、たった是だけの違いで、わたしはあの人と同じではなくなった。犯せる罪があればまだ良かったのに、触れるという手段ひとつが二度と与えられない。

「そうだ、来年は樅ノ木を買おう」
 去年のあの人の言葉が突然脳裏を過った。
「樅ノ木? ツリーではなくて?」
 少し笑ってわたしが返すと、あの人は得意げに頷く。
「おまえが云ったんだよ。むかしむかし、二十歳過ぎの頃にね。覚えていないのかい? 本物の樅の木を飾り付けてみたいわ、と」

 ずっと訊けずにいた。視界に入り込む度気になっていたし、気付いてもいたけれど。
 あの樅ノ木はどうしたの? 倉庫に凭れ掛かっているあれですよ。わたしのためだけに、わざわざ調達してくれたの? ねえ、どうして突然。それにそんなの、今更じゃあないですか。ばかね。あなたは本当に、ばかね。
 でもきっとあの人は云うでしょう。
 くだらないことを云うんじゃないよ。むかしむかしに、おまえが云ったんだ。

「おまえは莫迦な女だよ。酷くて、薄情で、綺麗な女だ」
 ぼとりと音を立て、椿の花が落下した。あの人はその場で崩れ落ちるように嗚咽を漏らしている。
 そろそろ、日が沈む。


Merry christmas & Happy new year,Mrs.Ako Tsukino and you! from Hinase.

2010.12.15 樅と約束   クリスマス/セルリアンブルー/天使/プラスアルファ/裏側