下肢の先端に残る最後の青を、水分を吸って重くなったガーゼで拭った。まるで旅をするように点々と住居を変え四年、五つ目のアパートメントで、わたしはまだろくな呼吸を出来ずにいる。新聞紙を広げ除光液で色を溶かす、そのわたしの隣に普段眠るベッドがあり、後ろでは小藤がパスタを茹でていた。以前何の気なしに立ち寄った、小洒落てはいるがあまり落ち着かないバーで出逢った男だ。わたしに声をかけてきたとき、ひどく軽い人だと思った。わたしはグラスの中で窮屈そうに寄り添い合う氷たちを乱暴に鳴らしつつ、適当に相槌だけを売っていた――と、記憶している。あれからひと月ほどが経った今、一体どうしてこのような形に収まっているのかわからないが、携帯の履歴とわたしの感覚を頼りにする限りでは、現時点でわたしは彼を悪く思っていない。勿論うっかりか計算か連絡先の交換を承諾したのはわたしで間違いないのだけれども、あれやこれやと世話を焼いてくれるのはそれなり有り難いものなのだ。好んで一人暮らしをしている割にはわたしに生活能力など殆どないし、それこそ独りでは自炊も掃除も洗濯も食事ですら必要最低限しかしない程なのだから。
「ナツちゃんは、放っておくとあっけなく死んじゃいそうだからね」――と、あるとき小藤はそう言った。ナツメ、井倉ナツメというわたしの名前は、小藤の中でナツちゃんとしてインプットされているらしい。親しげにそう呼んでみせる癖に、表札に提示されている井倉という苗字ですら覚えていないのではないかと思わせるような男である。あっけなく死んじゃいそうというのはそれこそ生活的な事なのか、或いはもっと内面的な事なのか、尋ねてみるとはぐらかした。「でも、兎のように脆くはないでしょう?」などと迷信を引っ張り出しては、笑うのだった。
 小藤は人懐っこく、誰ともラインを設けないようでいて、わたしの知る他の誰よりも淡白な人間だ。だから安心して部屋に招き入れる事が出来たし、合鍵だって渡せた。彼はわたしに何も求めない。それを補うように、わたしは彼に利便性ばかりを求めている。わかりやすく言って、小藤は殆どわたしの世話係である。今日のようにキッチンに立つ事もあれば、散らかった部屋を片付けてくれる事もあり、わたしの爪を色付ける事も、その色を拭う事だってある。頼めばなんでもしてくれる。しかし、言わなければ何もしない。そういう時はただ黙って、わたしが嫌だというまでくっついてくる。背中に背中を合わせ、少しの体重をかけて。その間を愛を語らうことで繋ぎ合わせた事は一度もなかった。その時偶然互いが互いを呼んでいたなら傍にいるし――尤もわたしが与えられるものはないように思うが、そうでないならきっと重ならないままだ。恐らく彼は、わたしが抱いて欲しいと腕を伸ばせば受け入れてくれるのではなかろうか。それでもそれをしないのは、そして小藤が強請らないのは、此処に男女としての世界が存在していないからかもわからない。
「もうすぐできるよ」
 ガーゼで拭い切れない分を処理しようとわたしが綿棒へ手を伸ばした丁度そのとき、小藤が振り返って言う。
「おいしくできた?」
 不意に双眸を細めてしまったのは、なんとなく彼を愛しく思うから。さあね、とでも言いたげに小藤は首を捻って片眉を下げた。彼はわたしより確か二つか三つ年下で、未だ大学生だ。年相応にかわいらしい態度でいる事が殆どでも、極偶に、堪らなく手の届かない人に思える瞬間がある。百歳も二百歳も年上である、ような。
「わたし、小藤のペペロンチーノ好きよ。あんまり辛くしないでってお願いしてから、味付けが丁度いいの」
「そう? それは何よりだな」
 例えばこういう時、彼は本当に子どものようなのに。そうふと視線をずらした瞬間、除光液の瓶の開け口から浸していた綿棒が、するりとわたしの指先をすり抜けて、液の中に沈んで行った。とぷとぷと底まで落ち、とんと地面を突いたその後は戻ってくる事はない。
「どうしよう」
 わたしは慌てて除光液をひっくり返す。フローリングに液が零れ、浅い浅い水溜りが出来た。小藤は慌ててこちらに近寄り、それを取り上げようとする。
「どうしよう小藤、綿棒が、取ってあげなくちゃ、小藤」
 ――どうしよう! たったそれだけの事で、ぷつりと何かが切れたように、バランスが崩れてしまった。はくはくと酸素を探し振動する唇が冷えて行くのがわかる。指先はかたかた震え、今のわたしはきっと、何処からどう見たってラリっている。膝の辺りが濡れているのに気がついた。ジーンズがフローリングに広がった除光液を吸っているのだ。小藤がわたしの背中を摩る。
「大丈夫だよナツちゃん、落ち着いて。新しいのを使えば良い」
 パスタの半分はまだ鍋の中塩水にぐつぐつ煮られ、もう半分はフライパンの中でじゅうじゅう焼かれているのが見えた。小藤の掌が温かい。上下にいったりきたりして、時々思い付いたようにわたしの髪を梳く。知らぬ間に嗚咽は抑えられない程大きく漏れ出て、涙はぼろぼろ止め処なく頬を傷め付けた。これでまた明日の肌が潤いを失くすのだ。心のどこかしらにある部屋では、わたしはそんなくだらない事も考える。
「どうしよう、どうしよう小藤。どうしたらいいのかわからないの。どうしたらいいの、小藤……」
 もう彼の顔もきちんと認識できなかった。ペペロンチーノの焦げていく香りが鼻腔に纏わり付く。そういえばこの人は本当は何なのだっけ。たったの一ヶ月で、わたしはどうして彼がわたしに安心感を齎す事をこんなにも知っているのだろう。脳の中心が彼の名を呼んでいるようだった。けれどその名前が思い出せない。否、聞いた事がないのだから思い出せないというのは不適切な筈で、なのに何故なにか引っ掛かっているような気持ちにさせられるのか。わたしが持つ空白。それは単なる空虚というものではなく、嘗て何かで埋められていたものなのだろうか。
「また悲しくなるよ、ナツメ。そんな想いをして思い出さなくてもいいんだ。おれはいつまでも待ってるから」
 そう言って彼の右掌がわたしの視界を暗くする。その温度がわたしをひどく、ひどく落ち着かせる。いつまでも此処で揺れていたいのに。男女としての世界がどうして存在しないのか、理由は明白だ。彼が、閉ざしてくれている。わたしが護られているように。
「……焦げてるよ、小藤」
「また作るよ。何回だって作るよ、ナツちゃん」
 あ、呼び名が変わった。違う、戻った。どっちだ。


2012 ペペロンチーノと除光液