僕の初恋は蛇女だった。それは中学二年生の夏のことで、見世物小屋なんてものは殆どなくなっていたというのに、何故か僕の住む地域ではそれが毎年頻繁に催されていたのだ。七月の中盤になると、どこからともなくその小屋は、僕らの通う中学から少し歩いた場所にある路地裏へ姿を現した。紫がかった黒色をしたテントのような、見るからに不気味なその小屋。看板には赤い絵の具で生々しく、「蛇女達の家」と、書かれているのだ。入場料は四百円で、僕の友人たち――主に男子――の間では、その小屋に通うことが流行っていた。目当ては蛇女でもなければ奇形児たちのショウでもなく、覗き穴からこっそりと見る性行為。思春期の友人たちにとって、小さな穴の向こう側で繰り広げられる、その人間という生態をあまりに知りすぎてしまっているようなそれは、とても魅力的なものだったのだと思う。僕は同級生の女子たちの身体の発育には興味がなかったし、かといって年上の女性にそそられる訳でもなければ勿論年下の女の子を見てもなんとも思わず、恋愛というものも、然して良いものだとは思っていなかった。ひとを好きになったことなど、まともにはなかったものだから。それなのでその覗き穴を意欲的に見ようとはしなかったのだけれども、友人たちに三度目に誘われた時、どうしても断り切れずに、僕はその小屋へ入ることとなった。一度目や二度目には、用事があるから、だとか、飼い犬に餌をやらなければいけないから、だとか、適当な理由で誤魔化すことが出来た。しかし三度目となると、彼らの耳にそれはもう言い訳としてしか届かない。どうせ、怖いんだろ。――そう言われてしまったものなので、そういう訳じゃないと、つい意地を張ってしまった。あの頃にしては珍しいものであるその見世物小屋、基蛇女達の家は、親には「行くな」とどの者も厳しく言われていたし、怪しいばかりで決して良い場所ではなかったのだ。それゆえ、真面目だったり気が弱かったりするクラスメイトは決して近寄らなかったことも事実だった。所謂度胸試しのようなものでもあったのだろう。
 初めて足を踏み入れた蛇女達の家では、思っていた以上に様々な催しが行われていた。覗き穴の向こうでは、性行為ともう一つ、幼児を虐待するというなんとも残虐なそれが行われていたらしい。脱臼させられたり、殴られるだけで済んだならそれは良いほうで、「やる」側の大人の気分によっては足の腱を切られてしまうだなんてことも珍しくはない、と、見たのかどうかは定かではないが友人が言っていた。そしてもう一つのステージでは、蛇女を筆頭に、箱抜けや蛸女など、趣味が良いとは世辞でも言えないようなグロテスクな世界が広げられているのだった。当時は既に身体障害者を見せ物にするなどと言ったことは厳しく取り締まられ始めた時代であったから、一歩間違えれば充分犯罪になり得る。それでも、借金やら何やらの事情で売り飛ばされてしまった娼婦や子供たちが、たとえばこのような酷な形で「見せ物」にされることがあるのも仕方のないといえば仕方のない頃でもあったのかもしれない。

 観客は殆どが柄の悪そうな男たちばかりだった。そんな中でもちらほらと僕らのような幼い者も確かにいて、そうひどく浮いた訳ではなかったが。僕ははじめ、言われるがままに覗き穴を覗いていた。けれども、目にした世界は僕にとって、良い悪いではなく「気持ちの悪い」ものにしか映らなかった。汗ばんだ身体や少しずつ乱されていく女の赤い着物、男と女の荒々しい息遣い。吐き気はすぐさま僕を襲い、僕は五分としてまともにその光景を直視することは出来なかった。それなので友人たちに一言、自分の趣味には合わない、と告げると、その場を後にすることにした。段々と興奮してきていることを露にした表情で――僕は滑稽だ、と思った――一人の友人が先に帰るなよ、と言ったので、僕は半ば嫌々に近い気分でもう一つの舞台を見ようと観客席に腰を下ろした。そこでは丁度、この小屋の一番の見せ物である「蛇女」が行われていたのだった。
 蛇女は若い女で、白装束をわざとらしく乱れさせ、肌を激しく露出させていた。髪は長く艶のある黒色で、化粧なのかどうなのか判らないけれども、異常なまでに顔や腕などは白かった。その蛇女の名はリツコであると、後ろのほうで中年女性が解説していたことを覚えている。蛇女――否、リツコが立っている隣には、透明の大きなケースに黒蛇がうじゃうじゃと五、六匹、入れられていた。始まったばかりだったのだろうと思う、リツコは手始めにとでも言わんばかりの顔で、一匹の黒蛇を手掴みにした。僕はそれだけで鳥肌もので、全く禄でもない場所に足を踏み入れてしまったものだとつくづく後悔をした。リツコは観客たちへその蛇が見えるよう、喉元を掴んだまま右へ、左へと差し出すようにその生き物を見せびらかす。そして、突如喰らいついた。――黒蛇の頭に。ぶちり、と、気味の悪い音が響く。リツコの口許には、黒蛇の血が滴っていた。元より赤く紅の差されていた唇は、より赤みを増す。吐き出すようにして口から黒蛇の頭を出すと、自ずとそれは引力により舞台の床へと落とされた。先程までリツコの口内へ含まれていた黒蛇の頭。僕は思わずごくりと生唾を飲む。それでも黒蛇は胴体だけで、リツコの手に掴まれながら蛇特有のうねりを見せ続けていた。リツコは再びそれを観客へ見せびらかしたのち、また突然、今度は尾から頭――正しく言うともう頭はないのだが――に掛けて手で血液を絞り出すようにした。するとその血液を、驚くことにリツコは飲んでみせた。ごくりとリツコの喉仏が動き、黒蛇の毒々しい、けれど艶のある赤い液体は更に口周りにべとりと纏わり付く。それでもまだ動きを止めようとしない黒蛇を観客の方へ見せ付けると、今まで無表情であったリツコが笑った。目を細め、口許を歪ませ、口周りだけに留まらず曝け出された白い肌にまで血液を滴らせながら。リツコは、力なくうねり続ける黒蛇の胴体を上へやったり下にやったりしながらじっくりと観察した。そうして最後には、またぶちりと音が鳴り響く。リツコが、黒蛇の肉を噛み千切っているのだ。しかも、今度はリツコはそれを吐き出さず、咀嚼し、飲み込んだ。そしてまた、口角を歪ませ笑う。それでも尚懸命に生きようと身体をくねらせる黒蛇を、リツコは床へと叩きつけるようにして棄てた。それから繰り返される、先程までと同じ一連の動作。黒蛇を一匹ケースから取り出し、観客へ見せ、頭を食い千切り、血を飲み、肉を喰らう。気付けば僕は魅入ってしまっていた。――リツコの妖艶な美しさに。
 蛇女のショウが終わると、リツコは一度も僕にその甘美な響きを持つであろう声を聞かせないまま舞台を去った。床の上へ、数匹の黒蛇の無惨な死体を残して。周囲は気持ち悪かった、と、眉根を寄せたり、野次を飛ばしたりしている。僕は急いでリツコを探した。嗚呼、一体どうして彼女はこんなにも美しいのか! 叱られることを覚悟して、僕は忍び込むように舞台裏へ足を踏み入れてみせた。そこには先程リツコの紹介なども兼ねながらナレーションをしていた中年女性と、――リツコが、いた。リツコは今や身体中に滴っている黒蛇の血液を布で拭き取ろうとしているところだった。それなので僕は、
「拭かないでください」
 と、言った。血液の滴るリツコが美しいと、言わずもがな思ったからだ。すると僕によってはお呼びでない中年女性が、怪訝そうな表情で口を開き、なんだい坊や、と言った。
「あんたはただの観客だろう、ここはあんたらが立ち入って良い場所じゃあないんだよ。それとも何かい、あんたもここでこの女のようになりたいのかい?」
 そうくつりと中年女性は喉を震わせながら僕に話しかける。思わずぶるりと身震いをすると、リツコはその白い腕――恐らく先程まで黒蛇を掴んでいた――を中年女性のもとへ伸ばした。なにも言うな、とでも言いたげな顔付きで。それから彼女は僕へ歩み寄る。こつり、こつりと下駄を鳴らしながら。僕が思わず身構えたその時、リツコは僕の観客たちの熱気によって汗ばんだ額にくちづけをした。まだ血液の滴る唇で。その時見たリツコの顔は今まで見てきたどの女性よりも美しく、舞台で見るよりも妖艶だった。長い睫に、白い肌に。先程のように歪ませられた口許は、けれどそれが純粋な「笑み」ではないことを僕に教えているようだった。唇を離すと彼女は僕の頭をひと撫でし、舞台裏の奥のほうへと去っていってしまった。僕は呆然と、その後姿を眺めているだけだった。それしか、出来なかった。
「……あの娘に逢いたいんならまた今度いらっしゃい。リツコは人気がある上によく働くからねえ、いずれまた見られるだろうよ。さ、出てお行き」
 中年女性のその口ぶりから、リツコ以外にも蛇女として働かされている若き女たちがいることは容易く予測出来た。僕は呆気に取られたまま、ただただ彼女の美しさと唇の感触を脳内で反芻し、中年女性に背を押されながら裏口からその場を後にした。額に付いた赤色――リツコの口紅か、あるいは黒蛇の血液――を惜しみながらも服の裾で拭えば、何食わぬ顔をして入り口へと向かう。友人たちを待ったのだ。数十分後、今日も今日とて良いものを見た、というような表情で小屋を出て来た友人たちに、リツコのことは話さないでおいた。友人たちよりも「良いもの」を見たこの贅沢感を、誰とも分け合いたくはなかったのだ。
 その後僕は金銭的な面で許される限り小屋に通い詰め、蛇女を見に行った。しかしリツコは現れなかった。他の蛇女たち――ナツコだとかユキコだとか、大抵リツコと同じような髪型に出で立ちをしている女ばかりだった――は、気味が悪いだけで、リツコのような美しさも妖艶さも感じられなかった。微塵も。これっぽっちも。八月の終わりに小屋は畳まれ、その翌年から、見せ物小屋の「蛇女たちの家」が、僕らの住む町に来ることはなくなった。その小屋の話題を、率先して口にする者もいなくなった。友人たちの間で、あれはひと夏の過ちのようなもの、として処理されたようだ。けれども僕は忘れていない。消えてしまった、あのリツコの美しさを。

 現在四十八歳となった僕は、人並みに仕事を持っているし、妻も居れば子供も居る、至極真っ当で一般的な普通の暮らしを送っている。蛇女を見たことがあり、その女に恋をしたということは、誰にも言ったことがない。偶に、初恋はいつかと尋ねられることがある。たとえば妻や、会社の同僚に。その時僕は、きまってこう答えるのだ。
「中学生の頃だったかな。隣に住む、少し年の離れた女性に恋をしたよ。けれど中学三年生の夏に引っ越してしまって、思いを告げることもなくあえなく失恋したんだ。ありきたりな話だろう。――名前を、リツコと言ったよ」
 割方誠実なほうであると自負している僕は、この時だけ嘘を吐く。脳内に、まるで幻のようだったリツコの姿をくっきりと思い描きながら。


20?? 蛇女