◆◆◆ 静寂の中の騒音

 窮屈な、一人暮らし用のアパートの中の一室でわたしと真由子は暮らしていた。わたしは朝はインスタントの味噌汁に白ご飯と決めていて、真由子はアイスカフェオレとこんがりきつね色にフライパンで焼いたシナモントーストと決めている。なのでわたしはまだ高校生である彼女のため、朝食を二種類用意しなければならない。もっとも、用意するというほど豪勢なものでないことは確かなので構わないことなのだけれど。味噌汁と白ご飯をテーブルの左側に置き、カフェオレに氷を入れ、最後にトーストにシナモンをふろうと瓶を手に取った時、わたしはようやくそれが昨日で切れてしまっていたことを思い出した。昨日は少し風邪気味で体がだるく、買い物を止めておくことにしたのだった。
「真由子」
「んー?」
 真由子は床にしゃがみ、足の爪に透明のペディキュアを塗りながらこちらを見向きもせずに返事をする。どうせ塗るなら色のあるやつにすればいいのに、と囁いたわたしに、これは拘りなのよと人差し指を立てて言っていたことを思い出した。
「今日、シュガートーストじゃ駄目?」
「……なんで?」
 随分と不服そうに、今度は顔をこちらに向けてそう声を落とした。このパターンは二度目だ。前は近くのコンビニまでわざわざシナモンを買いにいかされることになってしまった。
「切れてるの」
 シナモンが、そう、昨日忘れちゃってて、切れてるの。
 わたしは一応そんな風にしどろもどろに説明したけれど、どうせシュガートーストならいらないわとそっぽを向くのだろうと考え、鞄に手を掛けようとしたその時だった。真由子はまたペディキュアに熱中し始めて、まだ眉は不服そうに顰めたまま、いいよと言った。
「我慢する」
 到底我慢などは出来なさそうな顔で、だ。
 わたしたちの同居生活の理由を、一から十まで説明するのはとても面倒な作業だ。なんせわたしと真由子は赤の他人であり、年だって五つも離れているし、なにより同居生活をすることになった三ヶ月前の春まで顔を知りさえしなかったというのだから。

 わたしはその日、会社の上司にはこっぴどく叱られ、その上雨にふられた帰り道に路上に寝転ぶ猫を撫でようと思い手を伸ばしたらがぶりと噛まれ、最終的には帰宅して持ち物の整理をしたら今日持って帰ってやるはずだった仕事の資料を会社に忘れていることに気付くという散々なことが続いていた。因みにわたしは毎日のように上司から叱られてはいたものの、あんなにひどく理不尽な叱られ方をしたのは――なんでもお茶の出し方が気に入らなかっただとかなんとかで二時間ほどだ。仕事が残ってしまったのもそのせいである――生まれて初めてのことだ。なのでなんとなく夜空が見たくなって、気分が気分ならこのまま飛び降りてしまうのものいいような心地でふらりと会社へ戻るはずだった足を屋上に向かわせたのだ。すると目の前には見たこともない女性が脇に鞄一つだけを置いて、今にも飛び降りそうな格好でフェンスから身を乗り出しているではないか。自分も確かに死んでしまうのも良いと考えはしたけれど、勿論本当に死ぬ気などは更々なかった。少し自己陶酔に浸りたかっただけだ。だからそんな光景を目にしたら焦って止めようとするのは当たり前の行為であったと言える。
「……何してるの?」
 事を荒立てぬようわたしは出来るだけそうっと聞いた。女性がこちらに気が付いてわたしのほうを見る。わたしは続けた。
「早まっちゃ駄目よ、その、あなたまだ若いでしょう? いやなことがあってもきっとすぐに何か変わるし、それに……そうよ、とりあえずわたしの家でお茶なんかどう?」
 女性は非常に素っ頓狂な顔をした。目を見開き、口をぽかんと開け、不可解そうに首を傾げる。しかしそれも一瞬のことで、すぐにくっくっく、と喉を震わせ笑い始めた。そうして、
「じゃあ、あなたの家に住まわせてくれる?」
 と、一言。
「家賃も半分払うし、一ヶ月だけでもいいわ。お金はあるの。迷惑も掛けない」
「……何を言ってるの?」
 正直わたしは意味がわからなくて、頭のおかしい女なのかと思った。けれども女性は至ってまじめそうに――強いて言うなら多少口許は悪戯に歪ませていたが――言うのだ。
「いやだって言うならわたし、死ぬわ」
 そしてフェンスに足を掛けようとする。わたしは再び慌てた。
「わかった、わかった。わかったわ。いいから、早まらないで」
 咄嗟の一言だった。このまま死なれてしまってはわたしのせいになるではないか。死体を見るのはいやだし、罪も重たい思い出も、背負うのは勘弁だった。ただその光景を見た時に、なぜ話しかけずに黙って引き返さなかったのだろうと、それだけを後悔したのを覚えている。女性はまたにやりと口許に孤を描き、それからすぐに無邪気な微笑を作った。
「わたし、寺島真由子。十七歳。よろしくね。おねえさんは?」
「……十七歳?」
 二十歳は越えていると思ったのに。そう呟いたわたしに、真由子は「おねえさんって目が悪いのね」と笑った。そして一ヶ月という約束などとうに忘れ、もう三ヶ月――季節も夏に変わろうとしている今まで、真由子はわたしの家に居座り続けている訳だ。荷物は小さなボストンバッグ、それだけで飛び込んで。

 結局食卓は随分と暗いトーンで済ませられることになった。わたしは必ず今日の買い物でシナモンパウダーを買おうと心に決め、食器を水に浸ける。
「散歩に行ってくる」
「雨降ってるわよ」
「傘があるから大丈夫。夕方には帰るわ」
 そう言い残すと真由子はそそくさと席を立ち、家を出ていってしまった。恐らくまだ機嫌が悪いのだろう。わたしは折角の貴重な日曜日なのに、味の悪い始まりだと思いながらあの日のことを考える。そういえば背は百五十五センチと低く小柄な真由子であったのに、どうしても年相応に見えなかったのは雰囲気の問題だったのだろうか。短く切られていた髪の毛は当時より少し伸びた。つやつやと光る真由子の足の指先が脳裏にちらつく。


◆◆◆ 泣く犬

 いずみちゃんの説明をしよう。遠野いずみ、二十ニ歳。少しだけきれいで、たれ目のお人よし。おしまいだ。いずみちゃんを言葉で表すには、それだけの語彙で十分足りてしまう。それくらい判り易くて、見たままの性格をしているとわたしは思う。第一出逢いが衝撃的だった。わたしはいわゆる家出というものに挑戦中で、ホテルに泊まるお金も尽きてきた五日目の夜、たまたま行き着いたアパートの屋上でこれから先どうしようかと頬杖をついていただけだったのに。なにしてるの、と、わたしに問ういずみちゃんの顔は真剣そのものだった。
 わたしの説明をしよう。寺島真由子、十七歳。わがまま家出少女。おしまいだ。わたしは我ながら、自分の九割が"わがまま"で出来ていると思う。たとえば今朝だってそうだ。シナモントーストが作れないというだけで機嫌を悪くして、雨の中をこうして行く宛てもなく歩いている。けれど一旦外に出てしまえば歩くというのは面倒な行為で、なぜ自分がこうまで怒ってしまったのか全くわからない。こういうことはたびたびあるので、わたしもいずみちゃんも慣れてしまっているのだけれど。ほんの些細な一言を切欠に、ただでさえ家出しているというのに更に家出をしようとしたこともある。一度目はわたしが好きなテレビ番組をつまらないわねと言ったから。二度目はわたしのことが全体的に理解できないと言ったから。三度目はわたしを不死身っぽいと言ったから。四度目は。
 まったく、彼女も厄介な娘と同居生活を始めたものだ。そしてなんだかんだで馴染み始めているわたしもまた、危ない。これでは家を出た意味がなかった。
 試してみたかったのだ。一人でどこまで歩くことが出来るか。
「まるで一人じゃないわ」
 わたしは道端でそう呟いたが、あいにく雨音に掻き消えて自分の耳に届くことさえなかった。それなのでわたしは改めて、
「正気じゃないわ!」
 と大きな声で叫んでみせた。周囲がぱちりと目を見開きこちらを見たかと思えば、好奇の視線を寄せる人物も、くすくす笑い合うカップルも出てくる。誰も近寄りはしない。わたしは妙に誇らしくなって、心のもやが晴れたようで、満足気にひとりひっそりと笑った。

 暫く歩いたところで本当に途方もない散歩をしていることに気が付いたので、ドーナツ屋でお土産を買って帰ることにした。いずみちゃんはここのシナモンドーナツが大好物なのだ。店の隣でこれ見よがしに鳴いている捨て犬が(今時捨て犬だなんて!)いたけれど、さして気には留めなかった。しかし、わたしは店に入ってすぐにその行為を後悔することになる。店内に立ち込めるドーナツの匂いを全身で嗅いで、売り場に向かおうとしたその時、一人の女店員と目が合った。わたしは彼女を凝視し、彼女もまたわたしを凝視する。そうして、先に声をあげたのは彼女の方だった。
「真由子ちゃん!」
 これはやばい。今すぐにでも逃げ去りたい。彼女はそれほど仲が良いという訳でもないけれど傍目から見れば友人くらいには思えるかもしれない、という程度の、クラスメイトだ。行方を眩ましてから早三ヶ月、どういうことかわたしはまだ家族に見つかっていない。精力的に探そうとしていないのか、相当探すのが下手なのか、わたしの隠れ方が上手いのか、あるいは「必ず帰るので、そうっとしておくように」という置手紙がよかったのか、はたまた全く探す気がないのか。なんにせよ、今彼女に見つかってしまうのはあまりよいことじゃない。なによりわたしは人と話すのがそんなに好きじゃないのだ。けれど彼女はつかつかとこちらに歩み寄り、いかにも心配しているのよと訴えるような目でわたしに問いかけた。
「真由子ちゃん、どうしたの? なんでぜんぜん学校に来てないの? それに真由子ちゃん、家だってこの辺りじゃないでしょ? ……家出してるって、ほんとうなの?」
「はあ、まあ」
 質問が立て続けに舞い訳がわからなくなったので、曖昧に最後のそれにだけ返事を返しておく。すると彼女は、どうして! と潜めるような、それでいて怒りをかすかに含ませた声で嘆くように言った。
「お母さんたちも、心配してるよ。連絡があったの。一番仲が良かったのは君だからって」
 そんなつもりは更々なかった。
「帰ったほうがいいよ、真由子ちゃん。今どこにいるの?」
「そこのアパートで……友達と。あの、ごめん、急ぐんだ。シナモンドーナツみっつください」
 割り当てはわたしがふたつ、いずみちゃんがひとつで。と、心の中で付け加える。勿論急ぐだなんてそんなのは嘘だ。本当はもっとゆっくり店内を見て自分の食べる分も決めたかったけれど、正直鬱陶しいといったらなくて、早く逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。ただアパートをばらしてしまったのは失敗だったかもしれないと後から考えはした。わかりました、と、少しの間を置いて声を落としカウンターへ向かったクラスメイトは、わたしの言葉を聞くとやる気を喪失したとでも言わんばかりに眉根を下げるのだった。

 店を出ると、まだあの犬がくんくんと鳴いている。雨にふられてみすぼらしいことと言ったら。わたしはしゃがみこみひとなでしてみせたけれど、すぐにそれを悔やんだ。汚かった。ああ、今日は悔やむことばかりだ。
「連れて帰って欲しいの?」
 わたしがそう尋ねると、犬はきゅんきゅんと声を荒立てた。ように、わたしには思えた。それなのでいやな気持ちを抑え込んで抱き上げてみる。
「おまえって、泣くみたいに鳴くのね」
 顔をくっつけると尚更悪臭はしたが、今度は悔やみはしなかった。三度ほど背を撫でると、わたしは決めた。この子をいずみちゃんの友達にしてあげようと。
「おまえ、いずみちゃんって知ってる?」
 そう問いかけると、犬は知らないと言った(ような顔をした)ので、いずみちゃんの説明をしてあげなから帰った。普段はなんだかんだで面倒見がいいし、理不尽にわたしが怒ってしまっても謝ってくれるの。やさしいおねえさんよ。だけど、だけどね、怒るとすっごく怖いの。とっても、とってもよ。だから粗相はしちゃ駄目よ。犬はわたしの話を延々と聞いていた。
「……なに、それ」
 けれど参ったことに、わたしがいずみちゃんを怒らせてしまうことになったらしい。わたしが抱きかかえている犬とそのせいで少しくしゃくしゃになったドーナツの箱を見て眉を顰める。しばらく人差し指を顎に添えて考えるポーズ――大抵こういう時人間は実際に考えはしていないのだとわたしは思う――をとった後、大袈裟にはあ、と溜息を吐いて、説明をしなさいと言った。怖いいずみちゃんだ。
「いずみちゃんの……」
 友達に。そう続けようとして、言い直した。
「わたしの友達に」
 こういうところは中々頭が良いとわたしは自分でも感心してしまう。けれどいずみちゃんの反応は決して良いと言えるものではなかった。また大袈裟なほどに大きく眉を吊り上げて、飼えるわけないでしょ、と人差し指をわたしに向ける。わたしはそんないずみちゃんを宥めるように、必死に説得をした。あの場所まで戻しにいくのは正直もう腕がつらいのだと。
「意味がわからないわ、理解できない!」
 けれどいずみちゃんにそう言葉を放たれた途端、わたしはひどく傷付けられた気分になった。そして、じゃあもういいよ、と踵を返そうと扉に手を掛ける。理解できないだなんて。別にしてほしい訳じゃないけれど、理解できないだなんて。
「……名前は?」
 すると、いずみちゃんがまた溜息を共にそう言葉を与えてくれたので、一瞬でわたしは嬉しい気持ちになった。ドアノブを放して、ぱっと振り返り、犬を地面に下ろしてやる。
「シロ」
 そう言うとシロはニ、三度尻尾を振ったのち、ててて、と家中を駆け回り出した。この掃除はあんたの分担だからね、といずみちゃんが言ったので、わたしはうんと頷く。
「それで」
「なあに?」
「どこが白いの? 黄色じゃない」
「洗えば白いよ、きっと。ただいま」
 最後にそう挨拶を付け加え、にんまりと口角を上げてみせる。靴と靴下を脱ぎ裸足になるとズボンの裾を捲り上げ、わたしはいずみちゃんにペット用のシャンプーを買って来てくれるように頼んだ。いずみちゃんは渋々それに応じてくれる。いつもそうだ。いずみちゃんの帰りを待っている間、わたしはじゃれ合いも兼ねてシロにお風呂場でお湯を掛けていた。いずみちゃんも汚いと思ったのだな、などという考えを頭の中に張り巡らせながら。


◆◆◆ 真夜中の遂行

 デジャヴだ。今日もお茶の出し方が気に入らないと、真由子を家に住まわせることになった日と同じ上司に同じ内容で怒られた。その上梅雨だか何だか知らないが、傘も持っていないというのに雨にふられてしまっている。また散々なことが続いているではないか。こういう時は限ってよくないことが起きるにきまっていた。それなりに覚悟をして家に帰らなくては。
 真由子に引き続いて、家にシロという犬が一匹やって来た。真由子が拾って来たのだ。いずみちゃんの、いえ、わたしの友達に。わざとらしく咳払いをしてそう言い直した辺り、真剣にわたしの友達に丁度よいと考えたのだろう。あの子は少し変わっている。たとえば食事中は必ず右手の小指で一定のリズムを刻んでいる光景など、初めて見た時は少し異様だった。いったい、真由子がこの家を出たあとはどうすればよいと言うのか。シロの親は完全にわたしになってしまう。真由子がそのような考えで連れて来たのならば尚更だ。シロは白いのか黄色いのか黒いのかわからなくて、もこもこなのかぐしゃぐしゃなのかもわからなくて、けれど真由子の言う通り洗ってみると真っ白なもこもこの犬なのだということがわかった。(洗っている最中、真由子がふざけて何度もシャワーをわたしに向けるので途中本気で苛立ったことが印象的である)ただ、犬種がよくわからない。見たところビション・フリーゼだとかプードルだとか、そんな類のもののような気はするのだが――なぜか。小型で、毛が巻いているからという安直な推測の下ではあるが。前に育てられていた家での躾がよかったのかして、粗相やいたずらはあまりしない。肉食なのに肉があまり好きではないようで、たとえばゆでたササミなんかをやってみても食べなかった。ドッグフードと、犬用のクッキーと、ジャーキーならよく食べた。シロは恐ろしいほどすんなりと今我家に馴染んでいる。これではいつかの真由子のようだ、と、わたしは思う。真由子もこんなふうに、何ら違和感なくわたしの家へと吸収されていった。朝起きたらそこにいることに、なにも感じはしない。家にやって来た時から真由子自身がまるで生まれた時からそこにいましたとでも言わんばかりの顔をしていたので、錯覚を起こしてしまったのかもしれない。ただし、真由子はひとりでふらふらすることが好きだけれど、シロはひとりが極端に苦手だ。留守番が出来ないし――一度五分間試しに家を二人で空けていただけで部屋中がぐちゃぐちゃになっていたし鳴き声も凄まじかった。真由子曰く"泣いて"いるらしいが――散歩も必ずわたしたちのどちらかに、どちらかといえば真由子にぴったりくっついている。こんなもの、本当にいつか真由子が出ていってしまったらどうすれば良いと言うのだ。わたしには仕事がある。そう、真由子が出ていってしまったら。わたしはまた快適に一人暮らしをする予定でいたのに。
 今や我家は真由子とわたしとシロの家だった。
 それにしても、わたしは真由子の怒りながらの「もういいよ」に、弱い。いつも理不尽な怒り方をしているのは真由子であるのに、なぜか自分がとてもいけないことをしたような気分になって、つい謝ったり許したりしてしまう。それなら、わたしは真由子に対して、とてもたくさんの、あらゆるいけないことをしてきたことになる。

 ただいま。そう言って扉を開けても人の気配はありながら返事がなかったので、わたしはひどく落胆した。わたしの勘はきっと当っているのだろう。何かいやなことがある、と。玄関から少々足を進めたところで、シロがわたしに気付いててちてちと走って来た。尻尾を振り、体中で歓迎してくれる。
「ただいま、シロ。あなたのいとしの真由子ちゃんは何をしているのかしら?」
 シロは真由子、という言葉を覚えている。ぴくりと耳を動かすと、またてちてちと愛らしい足音を立て、わたしを真由子のもとへと案内した。といっても、シロがわたしのほうを見ながら一方的に真由子に歩み寄っているだけなのだけれど。
「真由子?」
 わたしはリビングと廊下を遮るカーテンを片手で上げながら、そう声をかける。
「……あれ、いずみちゃん? 帰ってたの」
 そう言葉を発した真由子をようやく見つけると、わたしは一瞬今自分が見ている景色を、いっそ自分の目自体を疑ってしまいたい気持ちになった。真由子は、台所に座り込み、食事をしていた。犬の餌で。傍に散りばめられた、ジャーキーに、クッキーに、ドッグフードに缶詰。どうやら全て味見をしているらしかった。
「……何してるの?」
 わたしは思わず息を呑み、出来るだけ小さな声でそう尋ねた。
「シロになってるの」
 すると返って来た返事がまたたいへん頓珍漢であったので、わたしはとうとう頭を抱え、真由子の傍にしゃがみ込む。
「説明して。一体何がどうなってこんなもの食べてるの?」
「知りたかっただけだよ」
 真由子はひとつまたクッキーを摘んで、口に放り込む。
「知りたかったの、ただ。シロはどんなものが好きで、どんなものを楽しいって感じるのか。他にも色々試したの、ボールを追い掛けて銜えてみたり、あと……とりあえず四つんばいになってた」
「……」
「でもあんまり判らなかったわ。ジャーキーも、缶詰も、食べられなくはなかったけどおいしくなかったし」
「当たり前よ。だって私達と動物達の舌は違うもの」
「人間だって動物じゃないの」
 動物、という言葉に腹が立ったらしい。少しむっとしたような顔付きで真由子がすぐさま返したものなので、わたしはまあそうだけど、と返事をするほかなかった。
 わたしは正直、感心するべきなのか怒るべきなのかわからなくなってしまっていた。この発想は、凄いと感じる。もしかしたら真由子はわたしが思っているよりもっとずっと感性豊かな、偉大な人物なのかもしれない。けれど動物の――犬の餌を食べるだなんて。あまり正気の沙汰だとは思えない。それでもわたしは徐に一番ましそうに見えるクッキーをひとつ手に取って、食べてみた。
「……あんまり味がしないわね」
 そうぽつりと呟いたわたしを、真由子が嬉しそうに笑って見ていた。


◆◆◆ それでも

 いずみちゃんと暮らし始めて丁度四ヶ月になる今日、両親がいきなり我家に押しかけてきた。押しかけてきた、という割には随分と腰の低い姿勢で尋ねてきたが、母は申し訳無さそうに、父もまた随分と萎縮した表情である。わたしはすぐにドーナツ屋のクラスメイトを思い出し、しくじった、と思った。休日チャイムが鳴ると大抵出迎えるのはいずみちゃんであったので、予期せぬ出来事に驚いていたようだ。
 休日であるというのに、一体この堅苦しい空気はなんだというのか。狭いテーブルに四人。わたしといずみちゃんが隣り合わせになり、向かい側に右側に父――わたしの目の前になる――左側に母が腰をかけた。しばらくの間、誰も口を開きはしなかった。いずみちゃんが出したお茶を遠慮がちに父がやたら多くの回数啜っていたように思う。これは父の癖で、緊張している時によくする。お茶がない時はなにかを摘んだり、しまいには指を齧ったり。
 沈黙を一番目に破ったのはいずみちゃんだった。
「あの」
 話し辛そうにではあるが、切り出すことを躊躇う風ではないように見える。
「なにも仰らないんですか。わたしたちがこうして暮らしていることについて」
「ああ、ははあ、そういえば」
 父は今気付いたとでも言わんばかりにハンカチで額の汗を拭い、またお茶を啜る。そうして、それじゃあ、と問いかけた。
「それじゃあ、ご関係などお聞きしても……友人? それにしては随分年が離れていますか」
 落ち着かない態度の父に何も喋らない母を交互にちらちらと見た後、いずみちゃんは小さな溜息を零す。どうやらこのふたりはいずみちゃんの好みではなかったらしい。ふたりは、特に母は非常に気弱で、わたしに話し掛ける時でさえおおきな気を遣うのだ。だから今母が黙り込んでしまっているのも、決しておかしなことではない。
「自殺を」
 次に口を開いたのはわたしだ。
「しようと思った、と思ったらしくて」
「は?」
 わたしは今までの経緯を話そうとしたのだが、そういえばいずみちゃんはわたしのことを勘違いしたままだった。わたしはべつに自殺なんてする気じゃなかったけれど、いずみちゃんはわたしを完全なる自殺志願者だと思っていたのだ。両親に向けて話していたのに、わたしの言葉に意味がわからないとでも言いたげに声を発したのはいずみちゃんだった。
「だから、わたし別に、自殺なんてするつもりはなかったの。いずみちゃんが勘違いして……都合が良かったから、つい」
「……嘘でしょ」
「もうばれてると思ってたわ」
 わたしは言い訳がましくそんな風に付け加えたが、いずみちゃんは聞く耳を持たない。大袈裟に顔を掌で覆うと、騙してたのね、なんて悲劇のヒロインぶってみせた。
「騙すも何も、わたしのこと自殺志願者とか、精神病扱いしたことないじゃない」
 そうだ。自殺志願者だから扱いが変わると言うなら話は別だが、いずみちゃんは別段そういった様子も見せはしなかった。それどころかぞんざいに扱われたことも何度かはあるはずだ。それなら真実を知っていようが知っていまいが問題はない。
「そういうことを言ってるんじゃないの。わたしは一人の同居人として」
「あのう」
 目の前で勝手に口論を繰り広げるわたしたちを止めるように次に口を開いたのは、なんと珍しくもわたしの母である。
「自殺って?」
 心配げに眉根を下げるその姿がどこかひどく痛々しくて、わたしは思わず胸が痛んだ。
 結局今までの説明はいずみちゃんがすることになった。
 このアパートの屋上で、真由子さんが自殺をしようとしていたんです。もっとも、それはわたしの勘違いであったそうですけどね。かんちがい。それでたまたま居合わせたわたしが驚いて止めたら、あなたの家に住めないならこの場で死ぬわって真由子さんが脅して……いや、言って来て。それで今に至っています。生活で特に困ったことはありません。犬を拾って来た時は、まあさすがに驚きましたが、楽しくやっています。
 なるほど、嘘は言っていない。ところどころで私が"騙していた"ことに対し怒りを含んでいることがわかる口ぶりだった。
「ははあ、それはなんというか……申し訳ない限りで」
 目の前で父がまたハンカチを額に当て、母は益々萎縮する。わたしはそれがとても滑稽に思えて、これ以降絶対に目は合わさないでおこうと決めた。
「あの……いずみさん、は、真由子に家に帰るよう勧めることはしなかったんですか」
「なぜわたしがそんなことを?」
 父の問いかけにいずみちゃんが怪訝そうに眉を潜める。
「したことはありませんし、するべきだと思ったこともありません。家賃を払ってくれている以上彼女の存在は迷惑ではありませんし、それを決めるのは真由子さんですから。それに、わたしは赤の他人でしょう?」
 父と母は驚いたように目を丸めた。そしてお互いを見遣る。いずみちゃんはわたしを変わっていると言うけれど、わたしはいずみちゃんのほうこそ変わっていると思う。
「そちらこそ」
 いずみちゃんはもう冷め切ってしまったお茶を一口喉に流し込むと、緩く首を傾げた。
「どうして帰って来いと言わないんです?」
 その時両親がすぐさま返事をすることができない理由を、わたしは理解することが出来た。わたしは本物の娘じゃない。両親は、わたしがそれをコンプレックスのように感じていると思っているのだ。特別気にしてはいないのに。わたしはいずみちゃんにそれ以上は問わぬよう手でサインをした。いずみちゃんは不可解な表情をしていたがどうやら納得してくれたようで、それ以上は踏み止まってくれた。

 それじゃあ。父は手を挙げ、母はいまだに息苦しそうな表情で小さくお辞儀をした。
「いつでも帰ってくるんだぞ」
 そうわたしの頭を撫でた父のてのひらが、なぜか他人行儀でおかしい。最後、家を出る際に、父が再び口を開いた。
「それじゃあご迷惑をお掛けしてすみませんが、……ところでその、シロくんと言ったかな。あれはうちの娘が勝手に拾って来たものなんでしょう。娘が帰る際にはうちで預かることも出来ますが、どうです」
「結構です」
 その質問にわたしはいずみちゃんが頷くことを予想していたので、きっぱりと言い放たれた台詞には少しだけ驚いた。いずみちゃんはシロを抱きかかえ、背中を撫でながら微笑んでみせる。
「この子は、わたしの友達なので」
 言い終えてからいずみちゃんがわたしに向かって目配せをしたその時、なぜだかわたしは泣きそうになった。父たちはさして何をするという訳でもないまま、シロに見送られて帰っていった。シロは訪問者なら誰でも見送る。新聞配達のお兄さんも、セールスマンも、宅急便の人も。ちなみにわたしかいずみちゃんが家を空ける時にはさみしいと縋る。その時の表情がわたしは好きで冗談で何度も何度も短いひとりの散歩をした。
「すこし気弱な方だけど、いいお父さんとお母さんなのに」
 ふたりが帰ってから暫くして、いずみちゃんが言う。
「どうして家出なんかしたの?」
 直球だ、と思った。わたしは答えはしない。その代わり、目だけで笑って返事をする。その質問の答えに値するものなど、わたしは持ち合わせていなかった。如何せんほんとうにわたしは突発的に家出をして、偶然の重なりでこうして暮らしているのだから。そこに強い意志などは、ない。恐らく両親がいずみちゃんかのどちらかが今帰れと言ったなら支度を始めたことだろう。
 それでも。それでもこの場所の居心地が良いと感じていることに焦り始めているわたしを、いずみちゃんはきっと知らない。

 その日の夜、いずみちゃんが電話口で友人と話す時とは違う雰囲気で笑っていた。恋人か。わたしは一瞬で察しがついた。前に年上の恋人が海外に滞在していると言っていたことがある。確かドイツかその辺りに。ええ、それじゃあ一週間後にあの喫茶店で。そう言って電話を切ったいずみちゃんににやにやとした笑みを向けたら、きつく睨み返されてしまった。


◆◆◆ それでいて幸福

 昨日、久しぶりに恋人から連絡があった。わたしの恋人は祐司という名前で、大学で出逢った。三つ年上の、やさしくて指の形がきれいな男だ。祐司は一年ほど前からドイツへ滞在勤務をしているので、もう長らく逢ってはいない。彼は言った。少しだけ帰れることになったんだ。ちょっと話したいこともあるし、逢えないかな。わたしは勿論、いいわ、と答えた。嬉しいわ、と。しかしどこかで、いやよと拒否をしたい自分がいたことに気は付いている。いやよ、そんなのいや。なにがいやなのかわからないけど、絶対にいやよ。恐らく彼の纏う不穏なオーラが、わたしに伝わってしまったのだ。祐司はできるだけ慎重に、わたしにそれが伝わってしまわないようにしていたというのに。けれど、違うかもしれない。浅はかではあるがそんな期待をも抱きながら、わたしたちは一週間後に逢う約束をした。いつも待ち合わせをしていた小さな喫茶店で。
 しかしその出来事の前にもうひとつ、わたしにとっては重大な出来事が起きていた。真由子の両親が突然家を訪ねてきたのだ。真由子曰くそれはとても「滑稽」な行為で、そのことを教えてしまったクラスメイトもとても「愚か」であるそうだ。わたしにはそれらの言葉が、真由子自身に降りかかってしまうように思えてならない。真由子の家出は恐らくとても愚かで滑稽だ。それを受け入れてしまったわたしは尚更。真由子の両親は、どこか変わった雰囲気を持っていたように思う。はっきり言って、わたしはその雰囲気を好きではない。個性として受け止めることは、出来ないように感じられた。おどおどとしていて、はっきりしないし、なにを目的に来たのかさえ忘れてしまっている風だった。わたしは真由子の両親が来た時点で、真由子と別れる覚悟は出来ていたのに。が、ここでわたしは自分もおかしいことに気付くのだ。覚悟だなんて。もともといなかった、おかしな同居人が離れることに対して覚悟をするだなんて。全く笑える話だ。真由子とわたしは同居人で、本当にそれだけで、それ以下でもそれ以上でもないし、なり得ない。それが事実だ。とにかくどうして真由子の両親がもっと精力的に真由子を連れ戻そうとしないのか、それだけが気がかりだった。
 今日もまたじとじとと雨が降っていて、七月に入ったというのにまだ梅雨は終わらないのだろうか、と思うとひどく憂鬱な気分になった。そんなとき、
「遊園地に行きたい」
 と、真由子が言う。
「遊園地?」
 勿論わたしは顰めっ面をして、こんな日に? と続けた。
「いずみちゃんと一緒に」
 わたしは断ることが出来なかった。

 わたしはいつも、この世のすべてのことが真由子を基準にして動いているように思えてならない。この華奢な体で、あらゆることを思い通りに仕組んでいるように思えてならない。雨の降る休日に、大人と呼ぶに相応しい年齢の女二人が傘を差して遊園地のチケットを買っているなど随分おかしなさまだ。受付の女性も少し驚いたように目を丸めてから受理してくれた。もっともだとわたしは思う。電車を二本乗り継いで来たこの場所には、わたしはよい思い出がない。小さな頃から家族で遊園地といえばこの場所だったけれど、どの乗り物も並ばなくてはならなくて面倒だし、そのくせ極端に怖いか極端につまらないかでたいして楽しくもないし、けれど子供ながらお金を払っているのだから遊ばなくてはという変な焦りに襲われる。くたくたになって昼食を食べ、そのくたくた感を倍増させるためだけにまた遊ぶ。遊園地。遊びの園。いやな名前だ。その話を真由子にしたら、
「今日はきっと並ばなくて済むわよ」
 と言うので、なんとなくわたしはそんな気になってしまった。真由子の言葉にはおかしな力がある、と、わたしは思う。あるいはわたしだけに効く魔法の言葉。そんな風に言ってしまうのは大袈裟であるように思えもするが。わたしは真由子にせがまれると、どうしても断れない。勇気を出して断ったり拒絶してみせると、とても悪いことをしたような気分になる。それはとてもとても、悪いことのように。いけないことのように。
「真由子ちゃんの恋人の話を聞かせてよ」
 広場のベンチに座って、チープな味のするすかすかのハンバーガーを食べながら――大抵こういうところのハンバーガーは不味い――真由子はわたしに言った。わたしは暫く考えてから、
「たとえば?」
 と聞き返す。
「じゃあ、出逢い」
「いいわ、話しましょう」
 あれは、わたしが大学一年生で、彼が大学四年生の時だったかな。サークルに誘われたの。軽音楽部。本格的な音楽じゃなくて、軽く音楽を楽しむ場所だから気軽においでって。意味がわからなくて頓珍漢なところは昔からだったのね。わたし、なんだかそれが可笑しくて、まあ入らなかったんだけど。たぶん一目惚れだったのね。笑い方がとっても好みだったの。連絡先を聞いて、今度一緒にお茶でもどうですかって。彼、びっくりしてたけど、いいですよって言ってくれて、そこからよ。定期的に逢うようになって、告白してくれたのは彼のほうだった。
「終わり」
 そこまでざっくりと話すと、わたしは口許にゆるい孤を描いてそう言った。真由子は真剣に話を聞いている。それから、ふうん、と言うのだ。ふうん、いいね、そういうの。
「乗り物には乗らなくていいの?」
 ハンバーガーを食べ終えても動く兆しが真由子に見られないので、わたしはそう問いかけてみた。真由子は少し首を捻って、こくりと頷く。
「いいの。なんだか遊園地の空気を吸いたかっただけなの。でも、特別変わってたりしないのね。そのへんと一緒だわ」
 まるで失望した、とでも言わんばかりの目で真由子がそう言うので、わたしは無性に切なくなって、なにか楽しい乗り物に無理矢理でも乗せてやりたい気分になった。それでもそんなことをしたところで真由子が喜ばないことをわたしは一番よく知っている。お金を払っているのはもう自分で、自分のお金なのだから焦る必要はないのだ。
「それじゃあ、次は真由子の番ね」
 わたしは手元に持っていた、もうすっかり温くなってしまったコーヒーをようやく飲み干した。そして視線は前を向いたまま、尋ねる。
「どうして家出なんかしたの?」
 ストレートではあったが、確かにそう聞いた。真由子は中々答えなかった。こういう時は根気よく待つことが必要だ。急かしてはいけないし、もういいと中断させるのもよくない。多分真由子は考え込んでいた。恐らく。それはあくまでわたしの推測に違いなかったが、それでも多分、きっと、恐らく。
 真由子が口を開くのは、その問いかけから五分ほどはとうに経過していた頃だった。


◆◆◆ 数々のおかしなこと

 さびれた、雨の日の遊園地。なぜ突然ここに来たいと思ったのか、それは自分でもわからない。思い出だとかそんなものを作りたかった訳ではない。ただ純粋にこの、腹が立つほど無意味に明るい空気を吸いたくなってしまっただけだ。それなのに、今日の遊園地は暗い。暗くて、やっぱり腹が立つ。恋人の話をするいずみちゃんは随分と幸せそうな顔をしていて、彼を大好きなことがよくわかった。しかし、もっと話して、と催促する前に打たれてしまった先手。なんで家出なんかしたの――答えなど、わたしは所持していないというのに。
「それじゃあ」
 いずみちゃんはわたしのほうを見ようとしなかったので、わたしがいずみちゃんの顔を覗き込む形になりながら、わたしは口を開いた。
「いずみちゃんの一番知りたいことを答えてあげる。わたしの親がなんで帰ってこいって言わないか。ちがう?」
 我ながら、わたしの勘は鋭い。こういう時はびしばし働くのだ。びしばし。そう、びしばし。いずみちゃんは少しだけ驚いたように目を丸めたけれど、すぐにふっと笑った。
「いいえ、その通りよ」
「でしょう。じゃあ答えるわ。まず、あのふたりは元から気弱で、ちょっと変わってる。それから、わたし捨て子なの」
 わたしはなんとも思っていないけれど、世間一般的にはぎょっとしてしまうような言葉。捨て子。勿論いずみちゃんもぎょっとした。
「なんでか知らないけど、生まれてすぐに捨てられちゃったの。まるでシロみたいに。それを拾ってくれたのが今の両親で、そのことはずっと小さい頃から教えられてきたの。わたしたちはあなたの本当のお父さんとお母さんじゃないけれど、その分だれよりも愛しているのよって。嘘を嫌う人たちなのよ。それを引け目に感じて、今回の家出もそのせいだって思ってるんだと思う。だから言えないの」
 わかった? そうフライドポテトを咀嚼しながら尋ねると、いずみちゃんはまるでわかっていない顔をしていた。同情しているのかなんだか知らないけれど、実際にわたしがそのせいで家出をしたと思っている目だ。わたしは事実を話したまでで、そんなことはちっとも問題に思っていない。
 ちっとも。これっぽっちも。
 そこまで言ってしまうと嘘になるかもしれないけれど。
「でもいずみちゃん、わたしをかわいそうだと思う?」
「思わないわ」
 いずみちゃんは正直者なので、この状況下でも嘘を吐いたりすることはなかった。癖なのかもしれない、怪訝そうに潜められた眉は。思わないわ。きっぱりとそう言った。
「そうでしょう。わたしはぜんぜんかわいそうじゃないわ。だって楽しく過ごしているもの」
「真由子は自由奔放よ。でもやさしい。中途半端なあなたが、親に対して後ろめたい気持ちがあったら家出なんて寧ろ出来やしないわね。わかったわ。それで理由は?」
 小さく頷く行為を繰り返しながらいずみちゃんはわたしの言葉の意味を飲み込んでくれた。わたしはそれにとてもすっきりとした気分になる。いずみちゃんはいつでも飲み込みが早い。わたしのことを掬うみたいに理解してくれる。頭が良い女性というのはこういう人のことを言うのだと、わたしは時々思うくらいだ。
「理由、なんだけど」
 わたしは人差し指を顎に添え、考えた。
「ないのよ」
 まじめな顔でそう零したわたしを、いずみちゃんは一体どんな気分で見つめていたのだろう。
「ないって?」
「ほんとうに、突発的だったの。気付いたら必要なものだけ鞄に放り込んで、家を飛び出してた。お金はあった。お金持ちなのよ、わたしの家って」
 冗談めかして言ったその台詞も、冗談にならなかった。いずみちゃんはそんな場合じゃなかったらしい。
「……強いて言うなら、知りたかったの。わたしってひとりでどこまで行けるのかなって」
「……いまはひとりだって言うの?」
 一瞬だけ、いずみちゃんがひどくひどく切なそうな顔をした。いまはひとりだって言うの? いまは? ひとり――。言葉が文節ごとに区切られて、わたしの頭の中でこだまをする。いまはひとりだって言うの? いまは、ひとりだって、言うの?
「ううん、ひとりじゃない」
 わたしは小さく笑うと、ぐっと伸びをしながら立ち上がった。食べたあとのごみをくしゃりと丸め、ごみ箱に捨てる。そして、
「だからもう行かなくちゃ」
 と言った。
「わたしはひとりにならなくちゃ」
 いずみちゃんは返事をしなかった。ひどく切なそうな顔をしたままで。
 結局この日、わたしたちは乗り物に乗ることはなかった。この会話のあともずっとベンチでふたりで黙り込んでいて、やっといずみちゃんが帰ろうか、と言ったところでわたしたちは席を立ち帰宅したのだ。いずみちゃんの一言がなければ、きっとわたしたちはいつまでもいつまでもそうしていた。今まで数々の偶然が折り重なって芽生えたこの「おかしな」状況は、けれどどこか幸福で気味が悪い。一刻も早くわたしはここから脱出せねばならない。そんな気がしていた。そうでないと、馴染んでしまう。


◆◆◆  Didn't you say me "I love you."?

 遊園地から帰ったあと、真由子が徐々に荷造りを始めるようになった。明日、この家を出るという。わたしは今日祐司との約束があり家を空けなければならなかったのだが、それはとても億劫なことに思えた。
「本当に大丈夫?」
 と尋ねると、
「大丈夫よ」
 と答えた真由子の瞳が、本当に大丈夫そうであったのでわたしは少し悲しくなった。この家は、真由子とわたしとシロで成り立ってしまっている。もう既に。そこからひとりが欠けるだなんて、考えたくもないことだ。

 今日待ち合わせていた喫茶店は、学生時代からずっと通っていた場所で、わたしたちが「いつもの場所で」と言うとそこは大抵ここなのだった。少しレトロな感じの、チョコレートケーキとレモンパイとダージリンティのおいしい喫茶店。足を踏み入れると、わたしが祐司を見つけるより早く、祐司はわたしを見つけ、手を挙げてくれた。わたしは祐司の姿を見た途端、いとしさと恋しさでいっぱいになって、抱きついてわんわん泣き喚きたい気分になってしまう。逢いたかったのに、どこへ行っていたの、と。わたしは今一大事なのに、と。しかしそれを抑え込んで、わたしは目元だけで笑い手を振ってみせる。それを見て祐司も笑ってくれたけれど、その笑顔はどこかぎこちなくて、やはりよい報せがないのだということをわたしはよりいっそう思い知らされる羽目になった。
「久しぶりだね」
 祐司のこの大きくて骨ばった手と、それから喉仏をひどく愛していたことをわたしは丁寧に思い出す。
「ええ、そうね。元気だった?」
「僕は元気そのものだよ。いずみは?」
 祐司がわたしの名前をあまりに自然に呼ぶものだから、わたしはまた泣きたくなった。一体何度目だろう、この衝動は。
「元気よ。ここ四、五ヶ月は波乱万丈だったけれど」
 そう言って、わたしは真由子のことを話し始めた。初めて出逢った時のこと、勝手に犬を拾ってきて家族がまた一人増えたこと、犬の餌を食べていたこと、少し風変わりな少女であること、家族も変わっていること。祐司は途中何度か驚いたように目を丸めたが、相槌を打つだけで口を挟みはしなかった。わたしは祐司のこういう話の聞き方を尊敬している。わたしはついなにか言葉を零し、相手の話を中断させてしまうのだ。そうして話し終わると祐司は、
「楽しかったんだね」
 と言った。君の目を見ているとわかるよとも言った。わたしは暫く考える。それから、
「楽しかったわ」
 と頷いた。
「あなたがいなくても割とへいっちゃらだったくらいよ」
 冗談めかしてそう言うと、祐司はジョークにならないな、と言って笑う。けれどそれは強ち嘘ではなくて、真由子が訪ねて来てからの約五ヶ月間、わたしは祐司のことを思い出す暇もないくらいだった。時折、真夜中に目が覚めると祐司に抱きしめて欲しくはなった。急にふと祐司の香りが鼻を掠めた気がして切なくなる時はあった。それでも全てを紛らわせてくれるのは、真由子とシロのいるこの生活だったのだ。
 祐司は既にアイスコーヒーを頼んでいたので、わたしはウエイトレスを引き止めてアイスティとレモンパイを頼んだ。
「それで、話は?」
 祐司は目の前で肩を竦める。
「もっと存分に再会を味わいはしないのかい?」
「そんなの柄じゃないってこと、わかってるでしょ。気になって仕方ないのよ」
 私がそう言うと、祐司は君らしいと言って少し笑った。けれどわたしの勘は当っているようで、祐司が今日私にしたい話というのはどうやらし辛いものらしい。五分間ほど、何度も何度もコップに口を押し当ててはコーヒーを喉へと流し込む。途中、「ええと」とか、「ああ」とか、曖昧な言葉を漏らしながら。
「僕はいずみが好きだよ。とてもだ」
 そんな風にして一定の時間を過ごした後、不意に祐司が口を開いた。その時彼の右眉が下がっていたので、その言葉が本題ではなく前置きであることはすぐにわかってしまった。彼は後ろめたいことがある時、大抵右眉を下げる。
「わたしもよ」
 それでもわたしは心底嬉しいと言わんばかりの表情でそう返事をしてみせた。
「でも、僕、今仕事が凄く軌道に乗ってて」
 祐司の顔付きが変わる。
「今はあそこからは離れられないし、離れたくないんだ。自分のことしか考えられない」
「それって」
「……ごめん。今は全て、取り払ってしまいたいんだ」
 やっぱり。そう思った。なのに、なぜだか信じることができなかった。理由もないのに、根拠もないのに、これは嘘だと、そんなばからしいことを思った。そうだと信じたいような、祈っているような、願いにも似た感情。これを縋るというのだろうか。意識が遠退いていく頭の片隅でそんなことを感じると、わたしはとても恥ずべき気持ちになる。
「でも、それって今のことでしょ? もしかしたらまたいつか変わるかもしれないわよね」
 違う、こんなことを言うつもりではなかった。最近電話の頻度が衰え始めていたことから、察しは付いていたはずで、わたしは祐司からその一言を聞いたなら、全てを受け入れるつもりでいたのだ。物分りのいい女の顔をして。
 けれど。
「それじゃあわたし、待つわ。待っていられる。ずっと待ってるわ」
 祐司は何も言わない。右眉どころかもう片方の眉まで下げて、申し訳なさそうにしている。目を合わせもしないで。
「待たせて……」
 我ながら情けない声が出るものだと感じた。待つだなんてこと、そんなのはまるで細い糸の上に立ち続けるような危ない行為だ。当初わたしはそれをするつもりもなく、本当に受け入れるつもりでいた。嘘じゃない。しかし、わたしは全てを潔く捨ててしまえるほど格好いい女ではいられなかったようだ。わたしは、祐司を愛している。それだけで、縋るには充分すぎる理由だった。それでも祐司からの返答はない。顔を覆って、声を殺して泣いた。嗚咽を止められない。好きなのよ、と言った。わかっている、と、ようやく返事が返ってきた。満たされはしなかった。それをわかっているかのように、祐司はそっと、まるで触れれば壊れてしまうかもしれないとでも言いたげにやさしく、わたしの髪を撫でる。
 恋は酷く困難だった。いつだって。
 喫茶店を出てもわたしは別れを受け入れる言葉を云わなかったし、祐司はその言葉を必要以上に欲さなかった。わたしも同じように、撤回の言葉を欲しはしなかった。否、欲せなかった。
「それじゃあ」
 祐司が小さく手を振る。
「……元気で」
 私は俯いたまま黙り込んだ。
 まるでないものねだりをする幼児と同じだ。もう祐司はこの手に入ってはくれない。わたしもそれを望んではいけない。わかっていたはずだった。
 やがて祐司の姿が人ごみに混ざってわからなくなった。昔はどんな時でも見つけることが出来たのに。全ては変わっていくのだ。この同じ空の下で。不変などは存在しないのだ。不思議なことにもう涙は出ていなかった。渇ききった瞳で、私はもう一度だけ祐司を探す。もうこの目では見つからないとわかっていても。そして一歩、また一歩と確かめるようにわたしは歩き出す。家へと繋がる道を、出来るだけ大きく踏み外してしまわないよう慎重に。わたしは祐司を愛していた。確かに、ゆっくりと。彼もそうあってくれればいい――その感情がもし、一秒しか持たないものだとしても。

 ただいま、と言いながら家の扉を開けると、シロがぱたぱたと尻尾を振りながら出迎えてくれた。
「待っててくれたの、シロ」
 わたしはそう言うとしゃがみ込み、シロをやさしく抱きしめる。シロはいつもよりも大きな動作でわたしの帰りを喜び、頬を舐めてくれた。
「そう、待っててくれたの」
 何度もそう繰り返し、わたしは小さな生命を撫で回した。シロ、シロ、シロ。私はこのときはじめて、寂しいという感情を明確に知った気がする。シロとわたしがそこで暫くじゃれ合っていると、次にのそのそと真由子が寝室から顔を出した。昼寝でもしていたのか、眠そうに目をこすっている。
「おかえり」
「ただいま」
 当たり前の挨拶を交わすと、わたしはすこしだけ笑ってみせた。その顔を見て、真由子は静かにこちらへと歩み寄りこう言う。
「ふられちゃったの?」
 あまりに突飛な質問に、わたしは目を丸くした。他にどう反応することが出来ただろう。けれど彼女は全く悪気のない顔をしていた。
「……いやがらせ?」
「なんで?」
 真由子は幼い。良くも悪くも。
「……そうね」
 ふられたのかもしれない、とわたしはもう一度笑う。
「でも、これが正しかったのよ」
 そう、きっと正しかった。こんな短時間で、もう吹っ切れたから大丈夫です、だなんて嘘でも言えないけれど、でも。思えば私たちは随分と前からおかしかったのだ。どことなく冷えていて、お互いある意味無関心で。
 真由子はまた、ふうん、と言った。この興味のないようで思考を巡らせている「ふうん」は、真由子の口癖だ。
「難しいんだね、大人って」
 そう言った真由子の向こう側に見えるリビングで真由子の引越しの準備がほぼ終了しているのをわたしは確認し、一気にふたつも失うのね、と呟いた。その時真由子は既にまた寝室へと戻っており、その声が届くことはなかったのだろうと思う。


◆◆◆ 惜しむ方法

 恋人にふられたといういずみちゃんは、思っていたよりも元気そうに見えた。帰宅時のシロとの接し方が今までにない様子だったので、まさか、と思い尋ねてみたら案の定だ。しかし、正しかったのよ、といずみちゃんは言った。まだ恋人を好きだという風に見えたのに。好きであるのに別れなければならない、そこに見い出す正しさなどわたしにはまだわからなかった。なんにせよ、もう越すというのにうじうじとそれに関して悩まれていても正直困るのが本音のところだったので、よかったということでわたしはこの一件を片付けることにした。
 いずみちゃんとの生活は、どこか特異で、あまりにも自然で、わたしはこの場に長く居すぎた、と思う。まるでこれではなにかから逃げていただけのようではないか。なにから逃げていたのかはわからないけれど、わたしは確かに逃げ出したい衝動に駆られて、家を出た。いずみちゃんは少し変わった女性だけれど、やさしくてあたたかい。わたしはいずみちゃんが好きだ。大切な友人だと感じている。だからこそ、わたしはもう行かなくてはならないのだ。新たなる計画を脳内で練りながらも、わたしは荷物の確認を済ませた。同居を始めた時の荷物の量が既に鞄一つというものだったので、帰りもそんなに多くにはならない。二つには増えたけれど、後から少しずつ持ち帰ることも出来るし、引越し業者なんかは不要だ。これでいつでも家を出ることが出来る。そう考えて、ふとおかしくなってしまった。わたしはすっかり、完璧にここが自分の家のように感じていたのだ。本当の家に今から帰るというのに、だ。
「学校のほうは大丈夫なの?」
 いずみちゃんが壁に凭れ掛かりながら尋ねた。
「大丈夫って?」
「出席日数」
「そうねえ、大丈夫じゃないかもしれない」
 相変わらずのんきね。いずみちゃんはそう言うと、シロを抱き上げてわたしの傍にしゃがみ込む。
「一緒に散歩に行きましょう。シロが一番懐いていたのはあなたなのよ」
 シロはいつもと違う空気を感じ取っているのか、今日は必要以上にわたしに擦り寄ってきた。わたしはそれが辛くて、どうしても頭を撫でてやることが出来なかったのだ。だから余計にシロは不安がる。けれどこうして目の前にやられてしまっては、わたしも気持ちの制御が出来ない。シロ。一度だけそう呼ぶと、わたしはいずみちゃんの膝からシロを抱き上げ、壊してしまわないように、けれど力強く抱きしめた。
「いつもの公園?」
「ええ」
 今生の別れではないのに。わたしは犬はそんなに好きじゃなかったし、最初シロを拾った時だって完全なる気紛れだったと、そう思う。それでも今はこんなに愛らしい。シロはとても利口だ。犬種はわからないけれど凄くかわいいし、今から泣くぞ、という時には必ず体を寄せて一緒に泣いてくれる。実際に泣きはしないけれど、わたしは出逢ったその時から、シロが泣く犬であるということを知っているのだ。シロは泣く。悲しい時も嬉しい時も。

 どうして突然帰ろうだなんて思ったの?
 公園へ辿り着くまでの間、いずみちゃんはわたしに何度も何度もそう聞いた。もっといてくれたって構わないのよ、ここから学校に通えばいいじゃない。いずみちゃんらしくないね、と言うと、黙り込んでしまうのだ。わたしはそれがおかしくて、もっとからかいたい気分になったけれど、さすがに今はそれが適切じゃないことを理解していたので、やめておいた。公園の木々は青々とした葉を誇らしげに茂らせていて、シロはその下をびゅんびゅんと走っていく。リードを持っているいずみちゃんはそれに引っ張られる形になり、どこか楽しそうに笑みを零していた。
「シロ、やっぱりわたしが連れて帰ろうか?」
 後ろのほうからそう聞くと、いずみちゃんはまったく心外だとでも言いたげな表情で、
「いやよ」
 と言うのだった。
「わたしからシロまで奪おうっていうの?」
 思わず笑うと、いずみちゃんの視線がやたらときつくなったのでわたしはそれ以上口を噤むことにした。
「遊びにいってもいい?」
 わたしがそう言うと、いずみちゃんは少しきょとりとしてから、
「シロに逢いに?」
 と言うので、わたしは頷く。そう、シロに逢いに。きっと逢いたくてたまらなくなるわ。
 ふたりがシロ、シロと言うものだから、自分が呼ばれたと勘違いしたようで、シロは伸びたリードを縮めてまた一直線にこちらへと戻ってきた。そしてわたしの足元に顔を押し付けるようにして撫でてくれと言う。わたしは両手でシロをくしゃくしゃになるまで撫でてやった。もともとくしゃくしゃなのを、更にくしゃくしゃになるまで。
 シロが好きだ。真っ白なシロ。餌を食べてしまった時には、とても悲しそうな顔をした。それは僕のものなのになんでそんなことをするの、とでも言いたげな顔だ。いずみちゃんと喧嘩をした時にも、とても悲しそうな顔をした。そして必ず仲を取り持とうとしてくれた。わたしたちはその一途さがかわいくて、ついごめんね、と謝り合ってしまう。
 いずみちゃんとシロのいない生活のほうが長かったのに、まるで今までずっとそうして暮らしてきたみたいだ。確かに実家も恋しいし、そこがつまらなかった訳じゃないのに。
「いずみちゃん」
 それでも、わたしの帰るべき場所はここじゃなかった。
「元気でね」
 世界は、春の次には夏がくるという当たり前の仕組みの中で、今日も廻り続けていた。


◆◆◆ 始める方法

 真由子がこの家から姿を消して、一ヶ月が経ってしまった。わたしは今までと何ら変化のない生活を続けている。ただ、真由子が現れる前と今とで違うことと言えば、恐らくシロの存在が大きいものになるだろう。シロは賢い。わたしが不意に寂しくなった時、一番に駆け寄ってくれる。お陰でわたしは誰にも縋るような電話をしないで済む。必要以上に祐司のあのきれいな形の手を思い出さずに済む。真由子の「もういいよ」という響きを思い出さずに済む。シロは名犬だ。そう思ったので、わたしはシロの名札プレートを「シロ」から「名犬シロ」に変えてやった。シロは嬉しそうにしている。祐司も真由子も一気にこの手の中からすべり落としてしまったわたしは、けれど相変わらずなにも失っていないかのような顔で笑う。わたしが真由子と暮らしていたことなど、知っている人物のほうが少ないかもしれない。あんなおかしな出逢い、全て夢だったのではないかと思うほどだ。全て夢。そう言われたほうがきっとまだしっくりくる。家族でもなく、友人でもなく、どうとも呼べないその位置に真由子はいた。家事にはまるで役に立たない真由子といるのが心地良いと感じるだなんて、わたしもどうかしてしまっている。
 しかし真由子は、おかしなほどしっかりと、明確に、わたしの感情をとらえてくれた。いらない言葉を与えようとはしなかった。それが気持ちよかったのだ。
「シロ、オサンポにいこうか。オ、サ、ン、ポ」
 オサンポ――お散歩、という言葉をシロはちゃんと覚えているので、それを言うとしっかり喜んでみせる。その姿は言葉では形容し難いほどにやさしく、いとしい。シロを拾って来た当時、真由子は言った。いずみちゃんの、いや、わたしの友達にどうかと思って。つまるところわたしの友達に良いと思って拾って来た、ということなのだが。それが今ではまるで現実になってしまっているのだからおかしなことだと感じる。
「シロ、マユコに逢いたい?」
 真由子に逢いたい? ――シロは尻尾を振った。マユコ、も、イズミ、も、シロはちゃんとわかっているらしい。逢いたいのね、わたしもそれなりに逢いたいわ。そう呟いたその言葉が嘘なのか本当なのか、我ながら理解に苦しんだ。
 遊びにくるね、とここを出る際に言ったくせに、真由子はまだ一度も顔を見せていない。もしかしたらここにはもう来るつもりなどなかったのかもしれない。シロに逢いたくは、ないのだろうか。一応念のためにと住所を聞かされてはいたのだが、自分から足を運ぶのはなんだか違う気がしたし、プライドが許さなかった。それになによりなぜここまでわたしが真由子に固執してしまっているのかが全くわからなくて、未だに戸惑う。
 真由子がこの家を出た。それだけでもう家が家じゃなくなったみたいだ。
 こんな時、わたしは祐司に抱きしめられたいと思う。力強くもやわらかいあの腕で。そして大丈夫だよと背中を擦って欲しいと、そう思う。寂しくなんてないだろう、僕がいるじゃないか。――もう何年、祐司の傍でわたしは生活していたのだろう。そしてわたしは一体どれくらいの間、真由子といたつもりになっているのだろう。どちらも人生のたった一部に過ぎないというのに。
 シロの首に首輪を付けて、リードを探している時に不意にチャイムが鳴った。
「はあい、今行きます」
 間延びした声でそう言うと、暫く辺りを見回していたものの、わたしはそれを探すことを中断する。そして、「シロくん、リード探しておいてね」と言葉を投げ掛けて、玄関口へと向かうことにした。
「お待たせしてすみません、遠野です」
「あ、隣に越して来た者ですけど、ご挨拶に」
 かちゃりと扉を開けると、目の前には華奢な体の、いつの日かこのアパートの屋上で出逢った女性がわたしがきまって使うようにしている洗剤を持って立っていた。
「ちなみに、もう一度高校二年生することになっちゃった」
 冗談めかすようにそう笑った女性――基真由子を、シロが今までにない大きな動作で、体中で歓迎していた。


2010 カムフラージュ